新たな一歩
作 檀上 香代子
(これからが、青春かもな) 心の中で薫は思った。
これがバスの中でなければ、鼻歌でも出そうな気分だ。そのうちバスの
心地よい揺れが薫の気分を、穏やかに夢見心地の世界へ誘う。
「終点です。御利用アリガトウございました」と言うアナウンスの声に
我に返った。乗客の後からゆっくり降りると、待っている孝が見えた。
「久しぶりね。」と声を掛けながら近づくと「MACでも入る?」と孝
「ううん、今日は落着ける喫茶店がいいわ。」薫の答えに2~3m先の
喫茶店を見つけ「じゃ、そこの滝へいくか。」「そうね。」普段と変わ
らない話し振りに、薫はちょっと騙しているような罪悪感が横切った。
二人して地下の喫茶店に向かいながら、孝は「話って何?」「ちょっと
座ってから、ゆっくりーー」と薫は答えた。孝がドアを引いて、薫が先
に入る。和風喫茶のためか、客は少なく、落着いた雰囲気の喫茶店だ。
薫は入ってすぐのテーブルに決めた。「ここでいいでしょう?」それに
「うん。」と短く答えた孝は、向かいの席に座った。薫は、テーブルの
メニューを開き「わっ! 高い。コーヒーが千円だって。」孝も少し驚
いた様子だが、「ビジネスマンの談話室的な店だからな。」そこへ着物
姿のウェートレスが、2本のお絞りを持ってきて「いらっしゃいませ、
どうぞ」と一人一人に袋から出して、開いたお絞りを渡す。「うん、
あったかくて気持ちいい!」薫はリラックスし嬉しそうだった。
「何になさいますか?」と尋ねるウェートレスに、ブレンド二つ、孝が
注文した。「で、話というのは?」と孝が尋ねた。「うん」と答えなが
ら、薫はハンドバックから一枚の書類を取り出した。 「これにサイン
して欲しいんだ。」孝は、テーブルに乗せられた書類をとって、驚いた
ように「これって、離婚届けじゃないか。」薫は一息深呼吸をして
「そう――何も云わないで、サイン頂戴!」孝は黙り込んでしまった。
そこへ、ウェートレスがコーヒーをおいていった。「私達ずっと別居結
婚の形とってきたけど、もういいかなって。」と言う薫に、「しかし、
孝雄とつぶらは、まして、つぶらは中学生だろう?」と孝は云った。
薫は「勿論、話したわよ。私の気持ち。」それを聞いて孝は「そうか。
――俺が悪いんだろうな。」とつぶやくように云った。薫は「そんな、
誰かがわるいってことじゃなくて」なだめるような響きの声で答えた。
「いや、生活も育児も、全て君ばかりに任せて、押し付けたもんな。」
と自分を納得させるかのように、つぶやいた。 薫は「そんなことじゃ
ない。貴方と私の間で、相手に興味も、話す事もない状態で夫婦である
ことに、無理になった。」と言った言葉には、自然な素直さがあった。
その素直な感じの言葉が、孝を黙らせていた。続けて薫は「私、このま
まだとつかれて自分が壊れてしまいそう、その前にはっきりさせたい。
そんな苦しい気持ちを、子供達察していたんだと思う。だから私の気持
ちを大事にして賛成してくれたんだと思っている。」云い終わるとホッ
と深い息をした薫であった。 孝は、書類に目をあてたまま、黙って聞
いている。 薫は続けた。「生活パターンは、今までと変わらない。
いつでも、子供と会えるし、貴方は子供のお父さんであるの。子供達の
ためにも、私らしく生きたい、後悔して人を恨んだり、人のせいにしな
いためにも今別れたいの。慰謝料も養育費もいらない。夫婦であること
をやめたい。」 孝はやおら、「子供達はさんせいしてるんだよな。」
そして、カバンの中からボールペンを取り出しゆっくりサインをした。
「ありがとう。それから、子供達、私の籍に入りたいというのだけど、
いいかな?」薫は聞いた。孝は少し考えて「ああ、それが一番かもな」
「貴方も自由に夢に生きて、私も好きな道に進むつもり。子供の言葉じ
ゃないけど、夢を大事に、新しい青春にGO!だって。」
ふと、思い出したかのように笑みを浮かべて「私を見て、私の生き方を
少しはみとめてくれたのかな。子供達」 薫はゆっくり、大事そうに書
類をハンドバックにいれて、立ち上がりながら「ジャ、私行くわ。
コーヒーご馳走様でいい?」「ああ、ボクは煙草を一本すってから。」
薫が「じゃ、また」と出口に向かう後姿を眺めながら、孝はゆっくり煙
草に火をつけた。薫は(これから性根を据えて、夢の実現の為に前に進
まなくては)と決意を新たにするのだった。これも青春というのだろう。
すると人は青春をなんど生きるのであろうか。