いつか俺が、この息を止めてしまう日がきたら。
窓辺に引っ掛けられた風鈴が、ゆるい風に煽られて果敢ない音を立てた。一緒に、線香の煙がふらりと揺れた。
(一年、か)
実に、呆気ない最後だった。
一年前、彼女は俺の目の前で帰らぬ人となった。
淡い水色のワンピース、ヒールの低いサンダルに、肩で切り揃えた黒い髪の毛。右の目尻の泣き黒子は、俺より三つ年上の彼女を驚くほど幼く見せた。
白い二の腕、細い足首、しっとりと汗ばんだ首筋と鎖骨の窪み。
どれもまだ、鮮明に覚えている。
ちりン、ちりンちりン。
その日はやっぱり、今日のようによく晴れていた。俺と彼女はお盆の親戚連中の集まりのために、二人で買い出しを命じられたのだ。
蝉が、五月蠅く鳴いていたような気がする。暑さを通り越して痛むように射す陽光に、彼女は楽しげに俺の隣を歩いていた。
『なっちゃんは、大きいなったねえ』
頭半分高い俺の顔を下から覗きこむ彼女の首筋が、襟の広いワンピースから覗いていたたまれなかった。だから目を逸らした。返事も、ああだかウンだか、それなりに素っ気なかった。
『こないだ来たんは、中学ンときやったね』
『ちょっと見いへん間に、男の子はすうぐ大きいなるなァ』
『ねえ、なっちゃん、聞いとる?』
『あたしなァ、来年、結婚すんのや』
『隣の市のな、何や知らん、エライ人の息子なんやと』
『おとんがな、勝手に決めてきよってん』
『そんなん、なア?知らんよなァ、あたし、何も知らんのに』
『顔も知らん。声も知らん。好きやなんて言うてへん。せやのに』
(何で、結婚せなアカンの、だったか)
(何と、結婚せなアカンの、だったか)
はっきりとは思い出せなかった。たぶん、それらしいことを言ったのだ。
だから、彼女は。
ちりン、ちりン。
(泣いて、た)
(はじめて、見た)
俺は言葉を失って、茫然と立ち尽くしていた。彼女は俺の前を歩いていて、そこにはちょうど、大通りを渡るための横断歩道があって、彼女は、俺を振り向いて。泣いていた。笑っていた。その唇、で。
ちりン、ちりン。
『なっちゃん、あたしなァ』
実に、呆気ない最後だった。
彼女は俺の目の前で帰らぬ人となった。
横断歩道の信号は青だった。運が悪かったのだと、周りの大人たちは言った。居眠り運転のトラックが彼女を撥ね飛ばす瞬間を、今でも時々夢に見た。
外の白く焼けた地面を眺めていた視線を室内へ転じると、暗順応を拒否した視界が明滅する。赤と緑と紫に焼けた影がちらついて、襖の陰に、誰、か。
ちりン、ちりン、ちり、ン。
「姉ちゃ、」
淡い水色のワンピース、撥ね飛ばされて、風を孕んで膨らむ裾から、覗いた白い脚。放り出されたサンダルが、やけにゆっくりと落下していった。
あの時、彼女は何を言おうとしたのか。ずっと、そればかりが気になっていた。
「ねえちゃ、こはるねえちゃんッ」
ちりン、ちり、ちりン。
(あんとき、何を)
(俺に何を言おうとした)
(俺は、おれは)
淡い水色のワンピース、ヒールの低いサンダルに、肩で切り揃えた黒い髪の毛。右の目尻の泣き黒子は、俺より三つ年上の彼女を驚くほど幼く見せた。
白い二の腕、細い足首、しっとりと汗ばんだ首筋と鎖骨の窪み。撥ね飛ばされて、風を孕んで膨らむ裾から、覗いた白い脚。放り出されたサンダルが、やけにゆっくりと落下していった。
ちりン、ちりン。
『なっちゃん、あたしなァ』
ちり、ン。
窓辺に引っ掛けられた風鈴が、ゆるい風に煽られて果敢ない音を立てた。一緒に、線香の煙がふらりと揺れた。
「ナツメェ!あんた、ボケっとしてないで、ちったあ手伝いなさい!」
母は台所で夕飯の支度をしていたらしかった。右手に菜包丁を振りかざし、襖の奥で仁王立ちしている。よく見れば、淡い水色のエプロンをつけていた。
まるで道化だ。馬鹿馬鹿しい。
「夕飯、何すんの」
「唐揚げ、エビフライ、コロッケ、ポテトサラダにお寿司に鰹のたたき、あとはお隣の斉藤さんがくれた落花生の煮物。あ、酒屋さんにビール届けてもらわないと」
「いいよ、俺が行ってく、る」
振り向いた、先で、淡い水色が見えた気がした。掻き乱された線香の残り香に、風鈴がひとつ、鳴いた。
ちりン。
いつか俺が、この息を止めてしまう日がきたら。
(あの日、あの言葉の続きを)
(聞かせてくれますか)
.20120716
作品名:いつか俺が、この息を止めてしまう日がきたら。 作家名:上田トモヨシ