始まり
どうしてそうなったのかは、もう分からない。
僕は啓太を、尊敬していた。
啓太は何でも出来た。スポーツも勉強もみんなをまとめる役も、先生に気に入られることだって。啓太の両親も自慢の息子だと自慢していた。
もちろん僕も啓太が友達で、こんなに誇らしいことはなかった。啓太のおかげで、学校も楽しくなった。だから啓太も、当然のように学校が楽しくてたまらないだろうなと僕は思っていた。
だけど実際は真逆で、啓太は学校が嫌いだったのだ。
勉強も運動もクラスで一番は当たり前、先生に気に入られるのも当たり前、皆に好かれるのは当たり前。それがつまらないのだと啓太は言った。そんなことを真面目にいう啓太を、僕はぽかんと間抜けな顔で見た。本気で言ってるの?という言葉を僕は何度も飲みこんだ。
そうしているうちに、啓太の思考はどんどん深みに入り、誰にも見つからない所で、どす黒く染まっていった。
啓太がクラスメートの豊田くんをいじめ始めたのはその頃だった。
豊田くんはちょっと鈍くさくて、ちょっとわがままで、ちょっとクラスに嫌われていた。
たった、それだけの理由で、いじめはエスカレートしていった。
啓太はとても頭が良く狡猾で、先生をはじめ大人たちはまったく気づいていなかった。その全貌を知っているのは、親友である僕だけ。
それが辛かった。
僕は何度も、止めようとした。
「やめてよ、啓太。そんなことをしても、啓太が辛くなるだけだよ」
どうしてだろう。啓太はそんなぼくを見て、笑った。
まるで悪戯をしているときや、豊田くんをいじめてるときの、楽しくてたまらないときのような。
「辛い?ぼくが辛くなるって、俊は言ったの?」
でもそれは間違っていた。あれは使い切って古くなったおもちゃを、思いっきり壊すときの啓太の笑顔だ。
「嘘だね。いじめられているのを見て、辛いと思っているのは俊の方だ。優しい俊は、同情してるんだよね。あの子へのいじめ、やめてほしい?もう、手遅れかもしれないけど、俊がいうならやめてやってもいいよ」
きっと、ぼくがここで「やめてくれ」といえば、啓太はやめてくれるだろう。
そのかわり、次は僕だ――と、直感で思う。
だって啓太は僕が苦しむのが見たい。親友がどこまでも堕ちていく姿が見たい。それはいじめよりも楽しいことだ。
僕は啓太のご機嫌を損ねてしまった。
きっとどちらを選んでも、始まるのは地獄――。
「ねえ、どうする?」
――はは。ははははは。
気が付いたら、僕は笑っていた。
「――やめてよ、啓太。あの子をいじめるのをやめて」
クラスの中心だった啓太、先生のお気に入りだった啓太、両親から愛されていた啓太。だけど啓太はそんな自分を少しも愛しておらず、嫌悪感すら持っていたようだった。
誰にも言ったことはなかったけど、僕は両親に憎まれて育った。
僕の父は僕に暴力を振り、母は見ないふりをしていた。父がいないとき、母はお前のせいで父がおかしくなったんだと、つねに僕を睨みつけた。そうすることで、この状況から目を逸らせられるというように。
だから僕にとって、学校とは、唯一の安らぎの場所だった。
さらに啓太と仲良くなれたことで、しだいに学校は避難場所ではなく、居心地のいいところになっていた。
だから啓太が豊田くんをいじめだしたとき、信じられなかった。
彼は父と同じように、ただ自分が嫌いというだけで他人を傷つけるような人間なのか。それは僕に言いようのない衝撃を与えた。裏切られたような気持ちだった。
だから僕は自分に嘘をついていた。きっと啓太は、そんな僕の嘘を簡単に見破っていたのだ。
彼は嘘に敏感で、自分は詐欺師なみに嘘つきなくせに、他人の嘘は決して許さなかった。
だから啓太は僕に近づいた。
そう。僕は啓太のことを尊敬していた。
だけどそれと同時に、僕はこの甘ったれた親友が、嫌いで嫌いでたまらなかったのだ。
僕は毎日、日記をつけている。
両親から暴力を受けたことはもちろん、啓太の豊田くんへのいじめも、全部書くようにしていた。
そうじゃないと、自分を保てない気がしていたのだ。
啓太、周りのひとが君を愛すように、自分を愛していればよかったのに。
そうすれば、ひとの奥底にある醜い部分を、見ずにいられたろうに。
にっこり笑って、僕はくるりと啓太に背を向け、ベランダに向かって走った。
乗り越える前、また啓太を振り返る。
啓太は呆然と、僕を見つめていた。
「ねえ、啓太。僕は君が嫌いだったけど、それ以上に僕自身が嫌いだった。でも君と一緒にいたとき、少しのあいだだけでも、自分を好きになれた気がしたんだ。――いや、そんなことはもうどうでもいいね。だってぼら、君のいうとおり、すべては手遅れなんだから」
ねえ、啓太――これは終わりじゃなく、始まりなんだよ。
君の終わりのない、悪夢のね。
さようなら、甘ったれのお坊っちゃん。せいぜい地獄を見ればいい。
ふわりと浮かんだ感覚とともに、悲鳴が上がるのを僕は笑顔で聞いていた。