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雪割草

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〈07〉江戸へ



 翌朝、日が昇る頃、西山荘には町人に姿をやつした光圀、早苗、助三郎がいた。
忍びのお銀、弥七も一緒。

 一行の顔を見渡し、光圀は出立を決めた。

「そろそろ行くかな?」

「はっ」

 お供二人は光圀に従った。
一方、忍び二人は別行動。

「ご隠居さま、わたしたちは先に江戸へ参ります。助さん、格さんしっかりね!」

 お銀は二人に声を掛け、弥七と共に姿を消した。

「わかってる! 心配するな!」

 助三郎は笑って二人を見送った。


 一行は光圀を先頭に、脇を早苗と助三郎が固めるといった形で歩き出した。
 少し歩いたころ、早苗は疑問に思っていたことを助三郎に聞いてみた。

「助さん、江戸まではどれくらいかかる?」

「三日もあればつく。行った事あるか?」

 興味深げに聞く彼に、早苗は顔を伏せた。

「いいや。水戸から出たことがない…」

 すると、助三郎は優しく言った。

「心配するな。俺だって江戸までしか行ったことない」

 その言葉にホッとした早苗は顔をあげ、許婚に質問を続けた。

「江戸では、藩邸に泊まることになるのか?」

「あぁ、だがあそこは堅苦しい所で気が引ける。また髪を結い直して着物を着換えんといかんし、面倒だ」

 未知の世界である江戸、藩邸に早苗の心は躍った。
着替えが、結髪が面倒などとは頭に無かった。 


 たわいもない話を三人でしながら歩いていると、彼女はふっとあることに気付いた。
それは、自身の背。大きいとは感じていたが、許婚よりも若干高くなっていた。
 いつも見上げていた顔が目の前にある。そのおかげで、首が疲れる事が無い。
少しばかりだが、好きな男と距離が縮まったと彼女は感じていた。


 助三郎の言葉通り、三日後の夕暮れ時に江戸、小石川にある藩邸についた。
与えられた部屋で一息ついているところに、助三郎がやって来た。
 彼は小さな声で早苗を誘った。

「…今から抜け出して、町に飲みに行かないか?」

 突然のお誘いに早苗は吃驚した。
今まで誘われたことなど一度も無い。
 二人で過ごせる時間が早くも訪れたことに魅力を感じたが、彼女の持ち前の真面目さが止めに入った。

「ご隠居一人残したら、まずくないか?」

 仕事で来ているのであって、物見遊山ではない。
そう強く言い聞かせて彼女は水戸を出た。
 しかし、助三郎は少し違った。

「大丈夫。ご隠居にお許しはいただいた。それに、ここは藩邸だから危険はない。お銀と弥七が側にいる」

「そうか…」
 
 そう言われれば、そうだと早苗は理解した。
それに、主から許可が下りている。
 早苗はどう返事をしようか、考えを巡らせた。

「な? 行こう。初めての自由時間だ。お前と色々話したい」

 積極的に誘ういつも見ている助三郎とは違う姿に、早苗の心は動かされた。

「…なら、行こうかな」

「よし、そうこなくっちゃ!」

 何とも嬉しそうな助三郎だった。





「格さんは、イケる口か?」
 
 先を歩く助三郎が早苗に聞いた。

「へ? あぁ…飲めなくはない」

「そうか。じゃあ良いな」

 満足げにうなずき、彼は手ごろな店を探して歩き始めた。
そんな彼の背に、早苗はそっと声を掛けた。

「…助さんは?」

「ん? 好きだが、強いとは言えんな」

 それは兄の平太郎から聞いていた。
弱くてベロベロになっていたと…
 尤も、平太郎は酒が強いので比較にはならないが。

「格さん。ここ空いてるってさ。入ろう」

 いつの間にか助三郎は店を探し出し、早苗に手招きしていた。
 
「あぁ」


 早苗は許婚と男同士、サシで飲むことになった。
初めての事で緊張しどうしの早苗だったが、助三郎と二人で楽しい一時を過ごす事が出来た。
 二人は互いの軽い自己紹介をした後、他愛もない話をして酒を楽しんだ。
 程よく酔いが来た頃、二人は店を出て藩邸の部屋へと戻った。


「二人とも、楽しんで来たかな?」

 部屋では光圀が茶を啜っていた。

「はい。もうちょっと飲みたかったんですがね…」

 助三郎は少し物足りなさそうに言った。
その彼と隣に居る早苗を、光圀は笑みを浮かべて眺めた。

「そうか。今度はわしも誘ってくれんかの?」

「承知しました」

「さてと、寝るかの…」

 いそいそと手に持っていた湯呑を片付け、光圀は部屋の隅に敷いてあった布団に向かった。
それは今まで旅籠でよく見た光景だったが、ここは藩邸。
 疑問を感じた助三郎は窺いを立てた。

「…あの、御老公は今夜こちらで?」
 
「そうじゃ。表の部屋は断わった。藩邸に居る間は、お前さんたちと寝る」

 そう言ってチラリと早苗を見た。
その途端、早苗は察知した。
 助三郎と夜中二人きりになる事を、光圀は阻止しようとしていたのだった。
 たとえ正体を隠した身でも、油断は禁物。いつバレるかわからない。
 光圀の考えに早苗は心の中で礼を述べた。

「さて、助さん。風呂に入って来なさい。わしは格さんと話があるでの」

 助三郎を風呂に行かせ、部屋には光圀と早苗の二人になった。

「御老公。お話とは?」

 早苗が口を開くや否や、光圀は天井を仰いだ。

「お銀。いいぞ」

 次の瞬間、早苗の眼の前には女中姿のお銀が座っていた。
突然の事に驚いた彼女は、声をあげた。

「お銀さん!? なんで天井から!?」

 早苗のその姿を見てクスリと笑うと、お銀は言った。

「その格好のときは呼び捨てにしてちょうだい。格さん」

「わかりました。で、なんで天井から来たんですか?」

 お銀はそれに答える代わりに、早苗に指摘した。

「ダメよ。『です、ます』も禁止。わたしが年上に見られるでしょ?」

 不可解な言葉に、早苗は思った通りの事を口にした。

「は? だってお銀さん俺より…」

 お銀は早苗より年上。
姉のような彼女の名を呼び捨て、更には敬語も使わないなどというのは、礼儀に反すると考えた。
 しかし、お銀にはそういう考えはなかった様だ。

「格さん。その姿の時にわたしの年齢に触れたら怖いわよ」

 笑顔で彼女はそう言った。ただし、眼は一切笑っていなかった。
その恐ろしさに早苗は身震いを起こし、大人しく従った。

「わかった。もう言わない…。 …それより、俺の話、聞いてるのか?」

 いい加減な父、又兵衛の事。伝達漏れがあるかもしれないと、不安だった。
しかしその心配は無用だった。

「もちろん。弥七さんもちゃんと知っているわ。早苗さん」

 先ほどの恐ろしい眼は消え、いつもの彼女に戻っていた。
ホッとした早苗に、傍で見ていた光圀が言った。

「お銀、早苗が元の姿で風呂に入るときと用を足すとき、助さんに見つからないようにしてくれんかの?」

 このために、光圀はお銀を呼んでいたのだった。
主の命を受け、お銀は早苗の傍に寄った。

「…早苗さん、今までどうしてたの?」

 その言葉に、早苗はイヤな事を思い出し、顔を伏せた。

「…風呂は、このままで入った」

 姿を自在に変える方法を学んだにも係わらず、バレるのが怖くて、厠でしか使えていなかった。
作品名:雪割草 作家名:喜世