アジアの夜
Episode.5
「さあ、今オーダーするから席につきましょう」
指がするりと離れ、今度は僕の腕を掴んで 悪戯な笑みを浮かべる君はまるで小悪魔だ。僕が落として割ったペリエの片づけをウェイターに頼むと君は僕を再び抱きかかえるようにして空いている席に腰かけた。
「具合はどう?」
君の手が僕の額にそっと触れる。さっきと同じ、柔らかくて温かい小さな掌、指の感触。
「大丈夫……心配かけてすみません」
声が掠れ、急に照れくさくなって思わず顔を逸らす。君はくすっと笑って、おもむろにハンカチを取り出したかと思うと僕の頬を優しく拭い始めた。
「そんなに深く切れているわけではないのね。血も止まっているし」
どうリアクションをしていいのかわからない、されるがままの僕。熱を帯びて瞬時に赤くなった頬を悟られはしないだろうか。
そんな僕の気も知らず、君はもう大丈夫とばかりににっこりと微笑み、すかさずウェイターを呼びとめ現地語で注文を入れる。その動作ひとつひとつが無駄なくきびきびとして美しい。
うっすらと焼けた肌。映える白いレースのキャミソール。ゆるくウェーブのかかった褐色の髪。汗がにじむ、大きく開いたその胸元が僕にとっては強烈に眩しくて刺激が強すぎた。
「主人の海外出張のお供なの」
俯く少し淋しそうな横顔。薄いピンクのアイシャドウ、グロスで艶めく唇。僕より少し年上、せいぜい大学生くらいかと思っていたから正直驚いた。化粧をしていても隠せないあどけなさ。「人妻」という僕の既成概念からあまりにもかけ離れた目の前の君。自分にとって遥か遠いものだと思っていた存在が、まさかこんなに近くに感じられるなんて。
見知らぬ僕を暴漢から救い出してくれたあの勇気と大胆さ、相反する人懐こさ、無邪気さ──そんな君の魅力は僕の警戒心をあっさりと取り払ってゆく。
「え? 人妻って意外? ふふ……よく言われるの。あの人からも。もっと年相応の化粧をしろとか、しっかりしろとか。他の海外出張組の奥さま方みたいに上品に優雅に落ち着けって」
ため息とともに、熱い吐息が降りかかる。あまりアルコールは強くないらしく、半分も残っているグラスには水滴がびっしりと張り付いている。スパイシーな料理が並ぶテーブルに片肘をついて小さな掌に乗せた君の頬はほんのりと上気していて、僕から見てもその様子は何だか子供っぽくて、それでいながら気だるそうで、危うくてとても放ってはおけない。