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ナガイアツコ
ナガイアツコ
novelistID. 38691
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夏の記憶

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九月上旬、大学のゼミ合宿の帰りだった。
熱海の山の上にある小さなペンションに二泊し、
三日目の朝に現地解散となった。

バスに揺られて山を下り、街へと戻ったものの、
その日は空があまりにも眩しくて、
このまま東京に帰ってしまうのは、ひどくもったいなく思えた。
同じバスから降りたゼミの仲間たちは、
当たり前のように駅の中へと吸い込まれていく。

私は被っていた帽子のつばを右手で少し下げ、
日差しを除けながらどうしたものかと思案していると、
突然、後ろからふわっと大きな陰に包み込まれた。
振り返ると、そこには同じゼミに所属するショウノくんが立っていた。
彼もまた眩しい青空を目を細めて仰いでいる。

リネンの涼しげなシャツにコットンのハーフパンツ、
足下はビーチサンダルという出で立ち。
ひょろりと長い手足は小麦色に焼けている。
まるで夏休みの小学生が、そのまま大きくなってしまったみたいだ。

ちょっとの間、私たちはそれぞれに黙って空を見上げ続けた。
塩の香りを含んだ風がふっと吹き抜けたあと、
先に口を開いたのは彼だった。

「クラゲ・・もういるかな。」独り言のように彼が呟く。

「・・浅瀬なら平気だと思うけど。」私も独り言のように呟く。

私たちはどちらからともなく、駅に背を向け、歩き出した。
温泉街を通り抜け、貫一お宮の像も通り過ぎ、 一直線に海岸へと向かう。

同じゼミ生ではあるが、人数が多い上に研究テーマも違っていたので、
普段は事務的なこと以外に話しをする機会はほどんとなかった。
私たちはいつもどおり、事務的に黙々と歩いてゆく。


シーズンオフの九月の海岸は閑散としていた。
とはいえこの日は、真夏のような太陽が照っていて、
絶好の海水浴日和だった。 波もほとんど立っていない。
私たちよりも先に来ていたカップルが一組、
少し離れたところでばしゃばしゃと楽しそうに泳いでいる。

「水着、持っていれば良かったのに」と残念に思う私をよそに、
ショウノくんは、着ていたシャツとパンツをさらりと脱ぎ捨て、
トランクス一枚になって海の中に裸足で駆けて行った。

もちろん、私にはそんなまねはできない。
クラゲの心配はどうなってしまったのか、
どんどん沖の方に泳いでいく彼を恨めしく眺めながら、
私はジーンズをまくり上げ、
かろうじて水面が膝の下あたりに来るところまで入っていった。

太陽の熱で暖められた海水は、思ったよりも温かだった。
ほとんど人が泳いでいないからなのか、
海の中はとても透き通っていて、
足の小指の爪までがはっきりと見える。

私は深呼吸して空を見上げた。

青い空に白い雲。
絵に描いたような夏空。

ひいていく波と一緒に移動する砂に乗って、
私も一緒に、すうーっと流されていく。
小さい頃から、この不思議な感覚が大好きだった。

お盆休みには必ず家族で海水浴に出かけたものだった。
浜辺はたくさんの家族連れで埋め尽くされていて、
色とりどりのパラソルが所狭しと並んでいる。
小さかった私は、一人で砂浜に立って、どんどん砂と一緒に流されていく。
足の裏をさらさらと流れている砂が心地よい。
さらさら、さらさら。このままオズの国まで行けやしないかと、
目を閉じて空想に浸る。さらさら、さらさら・・。

しばらくしてふと目を開けて振り返ってみると、
砂浜で待っている父と母が見えない所まで
ずいぶんと移動してしまっていた。
私は急に大きな不安に襲われ、両親の待つ方角へと駆け出した。
我が子の姿をずっと目で追っていた両親は、
半泣きで駆けて来る私を笑いながら、パラソルの日陰へと招き入れてくれる。

・・突然大きい波がやってきて、逃げる間もなく、
まくり上げたジーンズはびしょぬれになってしまった。

仕方がないので、砂浜に座って、太陽に乾かしてもらうことにする。
ひと泳ぎして戻ってきたショウノくんも、何も言わず私の横に来て寝転がった。
ここだけ時間が止まっているかのような、長閑な空間だった。

「・・なんか、懐かしいよね、こういうの。」彼が空を見上げたまま呟く。

波の音と暖かい海風に包まれていると 、
胸の中に溜まった重くて灰色の何かが
すっかりどこかへ昇華してしまう気がした。
綺麗な思い出だけが、記憶の中に積み重ねられる。
きっとこの瞬間もまた、記憶となって残っていくのだろう。

一時間ぐらいして、濡れた衣服が乾き、
私たちは各駅停車の列車に揺られ東京へと戻った。

帰りの電車の中で、私は彼の下の名前を初めて知ることとなった。
作品名:夏の記憶 作家名:ナガイアツコ