夏の記憶
九月上旬、大学のゼミ合宿の帰りだった。
熱海の山の上にある小さなペンションに二泊し、
三日目の朝に現地解散となった。
バスに揺られて山を下り、街へと戻ったものの、
その日は空があまりにも眩しくて、
このまま東京に帰ってしまうのは、ひどくもったいなく思えた。
同じバスから降りたゼミの仲間たちは、
当たり前のように駅の中へと吸い込まれていく。
私は被っていた帽子のつばを右手で少し下げ、
日差しを除けながらどうしたものかと思案していると、
突然、後ろからふわっと大きな陰に包み込まれた。
振り返ると、そこには同じゼミに所属するショウノくんが立っていた。
彼もまた眩しい青空を目を細めて仰いでいる。
リネンの涼しげなシャツにコットンのハーフパンツ、
足下はビーチサンダルという出で立ち。
ひょろりと長い手足は小麦色に焼けている。
まるで夏休みの小学生が、そのまま大きくなってしまったみたいだ。
ちょっとの間、私たちはそれぞれに黙って空を見上げ続けた。
塩の香りを含んだ風がふっと吹き抜けたあと、
先に口を開いたのは彼だった。
「クラゲ・・もういるかな。」独り言のように彼が呟く。
「・・浅瀬なら平気だと思うけど。」私も独り言のように呟く。
私たちはどちらからともなく、駅に背を向け、歩き出した。
温泉街を通り抜け、貫一お宮の像も通り過ぎ、 一直線に海岸へと向かう。
同じゼミ生ではあるが、人数が多い上に研究テーマも違っていたので、
普段は事務的なこと以外に話しをする機会はほどんとなかった。
私たちはいつもどおり、事務的に黙々と歩いてゆく。
シーズンオフの九月の海岸は閑散としていた。
とはいえこの日は、真夏のような太陽が照っていて、
絶好の海水浴日和だった。 波もほとんど立っていない。
私たちよりも先に来ていたカップルが一組、
少し離れたところでばしゃばしゃと楽しそうに泳いでいる。
「水着、持っていれば良かったのに」と残念に思う私をよそに、
ショウノくんは、着ていたシャツとパンツをさらりと脱ぎ捨て、
トランクス一枚になって海の中に裸足で駆けて行った。
もちろん、私にはそんなまねはできない。
クラゲの心配はどうなってしまったのか、
どんどん沖の方に泳いでいく彼を恨めしく眺めながら、
私はジーンズをまくり上げ、
かろうじて水面が膝の下あたりに来るところまで入っていった。
太陽の熱で暖められた海水は、思ったよりも温かだった。
ほとんど人が泳いでいないからなのか、
海の中はとても透き通っていて、
足の小指の爪までがはっきりと見える。
私は深呼吸して空を見上げた。
青い空に白い雲。
絵に描いたような夏空。
ひいていく波と一緒に移動する砂に乗って、
私も一緒に、すうーっと流されていく。
小さい頃から、この不思議な感覚が大好きだった。
お盆休みには必ず家族で海水浴に出かけたものだった。
浜辺はたくさんの家族連れで埋め尽くされていて、
色とりどりのパラソルが所狭しと並んでいる。
小さかった私は、一人で砂浜に立って、どんどん砂と一緒に流されていく。
足の裏をさらさらと流れている砂が心地よい。
さらさら、さらさら。このままオズの国まで行けやしないかと、
目を閉じて空想に浸る。さらさら、さらさら・・。
しばらくしてふと目を開けて振り返ってみると、
砂浜で待っている父と母が見えない所まで
ずいぶんと移動してしまっていた。
私は急に大きな不安に襲われ、両親の待つ方角へと駆け出した。
我が子の姿をずっと目で追っていた両親は、
半泣きで駆けて来る私を笑いながら、パラソルの日陰へと招き入れてくれる。
・・突然大きい波がやってきて、逃げる間もなく、
まくり上げたジーンズはびしょぬれになってしまった。
仕方がないので、砂浜に座って、太陽に乾かしてもらうことにする。
ひと泳ぎして戻ってきたショウノくんも、何も言わず私の横に来て寝転がった。
ここだけ時間が止まっているかのような、長閑な空間だった。
「・・なんか、懐かしいよね、こういうの。」彼が空を見上げたまま呟く。
波の音と暖かい海風に包まれていると 、
胸の中に溜まった重くて灰色の何かが
すっかりどこかへ昇華してしまう気がした。
綺麗な思い出だけが、記憶の中に積み重ねられる。
きっとこの瞬間もまた、記憶となって残っていくのだろう。
一時間ぐらいして、濡れた衣服が乾き、
私たちは各駅停車の列車に揺られ東京へと戻った。
帰りの電車の中で、私は彼の下の名前を初めて知ることとなった。