ドアノブ
「あなた、つひに閉まらなくなつたわ」
「ああ、もうだいぶ前から閉まつたり閉まらなかつたり、ドアのやつも気まぐれだつたからな」と夫の毅は答えた。
「どうしようかしら。大家さんを呼んで直してもらうのがいいのだけれども……」
「大家さんを呼ぶつて君、この散らかり放題の部屋に大家さんを呼ぶことははばかられはしないか?」と毅が言った。
「でも、そうしないとお金がかかるでしやう。こういふのを直すのは大家さんのご負担ですむのじやないかしら?」
「それはそうだと思うけど、まず片付けなければ、大家さんにしろ誰にしろ、部屋に入れるのは恥ずかしいだらう」
直美は掃除、整理、整頓が苦手だ。もつとも彼女によると「子どものころは、おばあさまが、そういうことは下女にやらせておけばいいと教えてくれたので」ということになる。 毅は、うすうすお嬢さん育ちの直美のそうした性癖は感じていたものの、結婚してからはその徹底ぶりにあきれたこともあつた。しかし、今ではすつかりなれてしまつたようだ
「じやあ、あなたドアノブを直すことができて?」
直美は修理の依頼を大家さんから夫の毅に変更したやうだ。
「部品さえあればできないことはないけれども」と言いながら、毅は自分の工具箱を取つてきた。元来、毅はこうした工作が嫌ひではないほうだ。ドアの金具を分解すると、内部が破損している。
「これはだめだ。中がばらばらになつている。やはり部品を買つてこないと」
「あなた、ドアを開けつ放しにしていると寒いわ」
「それは失敬。とりあえず閉めておかないといけないなあ」
「なんとからならないかしら」
毅はしばらく思案したのち、一時しのぎの案を思いついた。
「ちやうど、ここにバスタウエルがかかつているから、これを隙間に挟むというのは一計だと思はないかい?」
ドアのすぐ近くの鴨居には、衣紋掛けにぶら下つたバスタウエルが二条かかつている。これをドアと柱の隙間に挟んでしまおうというわけだ。
「ドアが閉まればなんでもいいわ。だつて私、寒いんだもの」
直美はお金がかからないで済むのならばそれが一番とおもつている節がある。ためしに毅がバスタウエルの端を挟んでみると、ドアが固定された。
「なんだか貧乏くさくていやだわ」と直美が言う。
「さっきは閉まればなんでもいいと言ったじやないか。まあ、それはそれとして、一時しのぎをしよう。そのうちホウムセンタアにでもいつて、金具を買ってくればいいだらう。なあに、インタアネツトで調べればアマゾンでも買えないことは無い。今はなんでもネツトの時代だからな」
最近、ネツトシヨツピングに頼つている毅は、そう言うと自分の部屋にいつてしまった。直美は、寒さが一段落つくと、すつかりドアのことは忘れて、お気に入りの俳優の出てくるテレビのミステリに集中していた。
それから幾星霜。直美と毅はすつかりドアを閉めるのにバスタウエルの端を挟むことになれてしまつた。毅も忙しさにかまけて、ドアの金具のことを放置してあったが、リイマンシヨツクでの、大不況をきっかけに会社を解雇されたことで時間ができて、漸くドアの金具を直す気になつた。
「これから池袋の東急ハンズに行つてくる」
「あら、どんなご用があるの」
「ドアの金具を買つてくる」
「あら、別にタウエルを挟んでおけばいいじゃない」
「いつまでもそんなわけにもいかないだろう。部屋も片付かないから、大家さんにお願するのも憚られるし」
「まあ、ご自由になさるといいわ。寒いから気をつけてね」
「それじやあ、行つて来る」
毅が出かけると、直美はテレビのミステリの方に向き直った。いつたい彼女はいままで何回殺人事件を見てきたことだらうか?
さて、毅は、東急ハンズで運良く同じ形式のドアの金具を見つけることができた。購入するやいなや部屋に舞い戻り金具の交換作業にはいつた。
「あなた、直せるの?」
「おそらく大丈夫だと思う」
「ドアノブがすりへつているからダメじやないの?」
「いや、ドアノブも買つて来てある」
「まあ、用意がいいのね。でも、ドアを開けつぱなしで作業されると寒いわ」
「ちよつとの辛抱だ」
「じやあ、しかたがないわね」
小一時間でドアがついた。
「ほら、閉まるようになつた」
「あら、ほんとうだ。やつぱりこのほうが便利ね」
「便利だらう」
毅は自慢げに直美の方を見た。
「さうだ、お湯を沸かさないといけないわ」
直美は居間からキツチンに移動した。もちろん金具を新しくしたドアを介してだ。毅は、直美がキツチンに移動して閉めてあるドアを見るとバスタウエルの端がドアの隙間に挟んである。
「直美さん、もう金具が直つているのだから、バスタウエルを挟む必要はないじやないか」
「あらいやだ、無意識なんだわ。習慣というのはおそろしいものね」
「いや、これはおそろしい」
二人は顔を見合わせて笑つた。(了)