マルチバース
アルバイトからの帰宅後、僕はソファに埋もれ、静まり返った部屋の中で、空間の一点をただただ眺めていました。
「このまま、どこにたどり着くのだろう」
そんな声を自分で出してみて、その可笑しさに一人で笑いました。疲れていました。何もしたくありませんでした。真っ青で透明な南国の海に泳ぎに行きたいと思いましたが、疲れすぎていて行きたいのかどうかさえも、そのうち分からなくなりました。僕はどこかに行きたかったのです。この世界ではないどこかに。
しばらくして、自分の感覚の歪みに気付きました。あの発作がやってきたのでした。
僕は、今までに何度も、その奇妙な発作に罹っていました。
それは、なんの前触れもなく僕を縛ります。ゲームセンターや、公園、アルバイトの帰り道など、時と場所に関わらず、静かに、この身体を捉えるのでした。また、その変移は僕が感じるのみであり、僕以外の他人には、僕の中に起きていることは分からないようでした。
その日の夜も、僕の帰宅前から部屋に潜んでいたかのように、それは突然表れました。
まず発作がくると、振幅していく波のように、最初は弱く、そっと脳を揺するような感覚を感じます。そしてその感覚は、次第に強く、大きいものになっていきます。
普段、発作が出たときは、テレビを見たり軽いストレッチをしたり、身体の感覚を紛らわそうとしていました。虫刺されを掻くような、対症療法的気休めではありますが。
しかしその日はなぜか、その感覚に寄り添ってみよう、という変な興味に駆られました。幼い頃から、何度もこの発作が表れましたが、一度ぐらいはこの発作を真と眺めてみたくなったのです。或いは、その時は、ただただ疲れていただけかもしれません。フリーターという職業、一人暮らし、将来への不安。こんな偶発的にやってくる発作に、いったい何を求めたのか、自分でも解りません。
ソファに座りなおし、その振幅を観察していました。次第に大きくなっていく感覚に、多少の恐怖を感じました。もしかしたらこれは、今までの中でも、とても強い発作かもしれない。それが、普段なら付けるテレビを、あえて付けていない事によるものなのか、それとも体がとても疲れているからなのか、発作は今まで以上に強い作用を持って、僕の中で暴れているようでした。
所詮、平凡でしかない人間に、虫刺されの、その痒みを楽しむことなんて出来ないということです。とうとう我慢ならずテレビを付ける事にしました。そして僕は、部屋の異変に気付きます。
「加速性脳障害よ」
まず、部屋にはブロンドの美女が立っていました。
僕は訳が分かりませんでした。本当に、訳が分からなかったのです。
ハリウッド映画の中から出てきたような、金髪の美女。彼女が今喋った言葉は、とても流暢な日本語でした。初めて聞く単語でも、それが突然放たれた文脈の無いひとフレーズでも、それが日本語と判る、漢字を頭に書ける、日本人の日本語の発音です。
そして、僕の部屋からテレビとパソコン、本棚がなくなっていました。
その異変は、元々そこにあったもののように、本来がそうであったように、僕には感じられました。一瞬の出来事だったと思いますが、あまりにその異変が整然としすぎていて、僕はその異変をまだ訴えることが出来ませんでした。とてもとても奇妙な現象です。気付けばあの発作も収まっていました。
ブロンドの美女はその後は無言でした。僕の言葉を待っているようでもありました。真っ赤なドレスと同色のハイヒール、細い飾りベルトと小さなポーチは黒い皮のものでした。どちらかというとロシアや北欧の顔立ちのように見えました。ハイヒールを穿いた背は僕よりも10cmは高く、大きな乳房が目を引きました。
僕は再度しっかりとソファに座り直し、今何と言うべきか考えましたが、何も生きた言葉は生まれませんでした。