恐れ
この時間では車は時々見かけるくらいである。本田は12時までスナックで酒を飲んでいた。
飲んだのはビール1本だった。2時間ほど休み、いいだろうと家に帰る所である。
前方に車のライトの光がサーチライトのように、空に向かって光っていた。
本田はスピードを緩めた。国道から1メートルほど下の田んぼに車が落ちていた。
クラクションがまるで「助けて」と言っているようにけたたましく音を出していた。
本田は車を止めた。横倒しになった車のなかに、人が1人居るようであった。
本田はためらうことなく車から降りた。雨が眼鏡にかかった。
幸いにも運転席側が横倒しの上であった。そこにシートベルトをした女性がいた。年齢は解らないが、着ているものから50代に感じた。
フロントガラスが蜘蛛の巣を張り目ぐしたように白く見えた。
「大丈夫ですか」
声をかけたが返事はない。ルームランプの明かりで女性の顔が見えた。
血が流れている。それほど多くはないが顔が赤く血に染まっていた。
本田は携帯で119に電話した。
「事故のようです」
「場所は?」
「清掃会社の近くかもしれません。50号です」
「あなたの名前は」
「私は通りがかりです」
「では携帯番号をお知らせください」
「そんなこと聞いている間に救急車を出して下さい」
「いたずら電話があるものですから」
本田は電話を切った。すぐにでも助けだしたい気持ちがあった。
運転席側のドアを開けようとしても、開くには開くがドアを押さえていなければ、女性を助けだせない。
車が来るのを待った。じれったい時間であった。トラックが来た。シャツを脱いで大きく振った。
「どうしだんだ」
運転手は窓から声をかけてきた。
「人が車のなかに居ます。一人ではどうにもなりません」
「やたらに手は出さないほうがいいよ。死んだりすれば責任問題になるから、救急隊に任せたらいい」
「電話したけどすぐに来そうにないですよ」
「かかわると時間かかるから、悪いな」
トラックは走り出した。
「たすけて~」
女性の声が聞こえた。気が付いたようだ。
本田はドアを体で押えながら、シートベルトを緩めた。
「ぼくの体にしがみついてください」
軽自動車で有ったが本田1人では車から出すことは出来なかった。
「ピーポー」サイレンの音が聞こえて来た。
本田は無性に腹が立った。
「途中で電話切ったから場所が解らなかったですよ」
「清掃会社と言ったはずだよ」
「それは1キロも離れてますよ」
「それより早く助けてやれよ」
さすがに手慣れたものである。3人の隊員は車を起こし、女性を車から出した。
担架に乗せて救急車に運んだ。
「連絡先教えて頂けますか」
隊長らしい隊員が言った。
本田は免許証を見せた。
先日はお助けいただき感謝いたしております。
3日ほどの入院で済みました。
何か動物が横切ったものですから避けそこないました。
それよりも大事なことがあります。
私はC型肝炎を患っています。もし、本田様にうつしでもしたらとそればかり案じております。本田様に傷が無ければ良いのですが、お返事を頂けたら安心出来ます。
封筒のなかには三万円分の商品券が入っていた。
女性を助けようとしたとき、フロントガラスで切ったのかもしれない、右のなか指に傷が出来ていた。
品田佳代子様
ご安心ください。どこにも傷は有りません。
過分なものを頂きかえって恐縮します。
どうぞお体お大事にしてください。
本田は28歳になる。半年後には結婚式をしなくてはならない。
肝炎の不安が本田を苦しめ始めた。