Cry for the moon?
ずっと待っててもかなうかどうかわからないって知っていても、どうしても待ってしまうことがあるのはおかしいのだろうか? 彼がおかしいとは思えないから、自問自答する。
彼とはどれくらいの付き合いかもうわからない。気がついたら彼はそばにいてくれたし、同じように私もそばにいたと思う。たまたま出会って、たまたま仲良くなって。
でも、差し伸べられていただろうその手を振り払ったのは、私のほうだと思う。
もう一度あの時あの場所で違った言葉をかわせたのならばまた私たちはふたりでいられたんだろう。でもすべてもう遅い。私はその手を取らなかったし、彼は諦めてしまったから。
それなのに、どうして今、私は彼の腕の中にいる?
同棲している恋人は今日も仕事で帰ってこない。残業続き。熱々なんて言葉だけ。
放置されて三日間。淋しかったのは否めないけどなぜか成り行きでこうなってしまったの、だろう。ずっと一緒にいたのに一度もしなかった行為を終えて、独特の甘ったるい空気が部屋中に満ちている。
ふたりとも一糸まとわぬ姿で無防備極まりないというのに、なぜこんなにも満ち足りていて子どものように笑いあっているんだろう。
「どうしたの」
「なんでもない」
腕枕を自然にしてくれている彼が私の様子に気づいたのだろうか、声をかけてくる。彼にとってもこの状態はありえそうでありえなかったのだろうか。すべて憶測でしかないけれど。
彼に恋人がいることはよく知っている。私の後輩でもあるあの子のことも私は裏切っている。私の恋人とも彼は知り合いであるので、ふたりともたくさんのことを裏切って今ここにいる。
明日のない関係に意味はあるんだろうか?
「後悔してる?」
「……してたら、もっとなにか言ってるわ」
ベッドサイドからタバコを取って、火をつけた。半身を起こした私にシーツが絡みつき、紫煙がゆっくりと立ち上っていく。
最初は、ただ愚痴を聞いてもらうつもりだった。彼も色々話したいことがあったらしく杯を重ねて二件ほどはしごしたことまでは覚えている。絡み酒というわけでもないし、お酒に弱いわけでもないのに今日はなにかが違った。
気がついたら、手をつないでいて。
気がついたら、彼の家に行っていて――そうだ、宅飲みしよう飲みなおそうということになったんだ。そのはずだ、私が時折(後輩のあの子がいる時だけど)彼の家へ遊びに行ったりすることは私の恋人も知っているし、間違いがないはずだと信頼もされているはずだ。あんまり知らない飲み屋をはしごするよりかは、とコンビニで買い物したことも覚えている。
薄暗い中に立ち上るタバコの煙はやけに幻想的で綺麗だった。
さっきまで他愛もないことで笑いあっていたのに、現状とんでもないことになっていると気づいたのかふたりとも口数が急に少なくなっている。
「今だけ、って思えばいいのよ」
「……今だけ、ね」
「あの子に会っても、誰に会っても、何事もなかったようにしていればなんとかなる……というか、そうするしかないよね」
「まあ、ね。こんなことがばれたら大変だもんな」
これで、私たちは共犯者。
「でもさ」
「なに?」
「もう無理だとわかっても、月に手を伸ばしてほしがってしまいそうだよ」
「私は……そういう子どもにはなりたくないわ」
ふたりとも読んでいた小説の一節からのやり取りは、どこかもの哀しかった。
また、手を振り払ってしまったんだと気づいたのはそのすぐ後。
でも、と私は彼の口唇に軽くキスをする。この辺りの切り替えが上手いのはちょっとおかしいな、編だな、と自分でも思う。
緊張感なんて私には微塵もなかった。少なくても、私のほうには。誰かの気持ちを慮るのが怖かったのかもしれない、と少しだけ考えるけどすぐになかったことに、した。
シーツの海の中はとても伸びやかに泳げる場所で。
パートナーが彼だからこそ安心感をもってすべて任せることができた。
波はゆっくりゆっくり押し寄せて私たちを逃れられない場所へと追い込んでいく。
溺れそうになることは今までだってあったけれど、怖くなかったのは彼だからだろうか? ずっと一番そばにいた相手、こうなることがありそうでなかった相手。でも、もう少しはやければもしかして違った?
ゆっくりと眠りの浅瀬に流されていく私の耳に、彼のささやき声が。
「もっとはやければ、違っていたのかもしれないね……俺も、君も。こんな風にならなくたって、ずっときっとそばにいれたんだけどね」
「ん……なに……?」
「なんでもない。ゆっくり眠って? 今はまだ、このままだけれどそれでもいいよ、俺はさ」
もっとはやけれ、ば? 違っていたってなにが違っていたんだろう……?
一夜の甘い夜は終わって、新しい朝がやってくる。
すべてリセットしてしまえ、そうすればなにもなかったことにできる。
それからあの日のような出来事は起きていない。
あれからも普通に会っているし、遊んでもいる。お互いの恋人がいる時にどちらかが家を訪れたことだってある。ばれてはいない。
でも知ってる。
少しずつ、彼が恋人と心の距離をとっていること。そして私も同じように。
一番落ち着ける場所を知らせたのは、他人。
最低なことをしたということはふたりともわかっているから、どんな批判だって受けるだろう。あの日がなかったら気づくことはなかったし、じれったいくらいに円満な別れを望んでいくことだってないだろう。
決定的に繋がれる鎖でなければ断ち切ることができて、私たちはそれに間に合うことができたんだからそれでいい。
間に合わなかった人だってきっといるんだから。
どんなに届かない月も、リスク覚悟で撃ち落してしまえば手に入る。
とてもシンプルで、とても最低な話。
『Cry for the moon?』了
作品名:Cry for the moon? 作家名:椎名 葵