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尖塔のみえる町で

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 確かに、明日この町を去るというときになって思い出すのは、ユージとのことばかり。でも、それは当然かもしれない。同じ家に下宿して、学校のクラスも同じで、日に三度いっしょに食事をし、パブにだって行くし、休日もたいてい行動をともにしていたのだ。考えてみれば、一人の男性とこんなに長い時間いっしょに過ごした経験はない。
 私は学校ではたった一人のロシア人だった。共産圏ではないここではロシア人はつまはじき。内気な私に声をかけてくれる学生なんてほとんどいなかった。
 そんな私の姿を見て、ユージは意識的にいっしょにいてくれたようなのだ。けんかもするけど、そんなふうに、ユージはやさしい。だから、いつのまにか、ユージは私の心のなかに住み着いてしまったみたいなのだ。
 でも……。私は、もう帰らなくてはならない。ユージには本当のことを言えないまま。それはユージのことを好きになってしまったことではない。
 私は、銀行員として仕事で必要な英語を勉強するため会社から特別休暇を与えられてこの町に来たとみんなに説明していた。もちろん、ユージにも。でも、それはウソだ。
 私は職場で信頼しきっていた上司が横領事件で逮捕された後、すっかり精神的に参ってしまって、自宅療養を余儀なくされた。銀行は辞めざるを得なかった。もともと人に心を開くのが苦手な私が、社会に出て唯一人、この人にはなんでも話せると思い、実際そういうつき合いができた人だっただけにショックは大きかったのだ。彼のことをすっかりわかったつもりでいたのに、本当は何も理解できていなかった。彼に裏切られたという思いはなくて、ただ自分のひ弱さ、生きる力みたいなものの欠如を苦い思いで噛みしめていたのだった。
 思いきった気分転換が必要だという父の友人である医師の意見に従って、父は私をこの町に送ることを提案した。父の知り合いの娘さんがケンブリッジに語学留学した経験を持っていたことから、父はその人からアドバイスを受けパスポートの手続きや航空券、学校の手配などすべてをやってくれた。
 最初はあまり乗り気じゃなかった私も、英語は小学校で習いだしたときから好きだったし、海外に対する興味も強いほうだったから、本当にケンブリッジに行く手はずが全部整うと、自分でも不思議なくらい次第に気分が明るく上向いていった。
 そんなわけで、モスクワに帰ったら、仕事を探さなくてはならない。父はおれが何とかしてやるなんて言っているが、それに甘えるべきじゃないと思う。
 私はもう一度、独りで初めから歩き直すしかないんだと思う。ゆっくりと、時間がかかってもいい。私にはそれができるはずなのだ。
 だって、生まれて初めて会ったユージという日本人と、私はそれなりに、いや、けっこううまくつき合えたと思うもの。明日はいよいよこの町を発つという日、私はユージとお腹をかかえて、こんなにも大笑いしているんだもの。
 ごめんね、ユージ。あなたには本当の自分をすべて見せることができなかった。でも、今の私にはこれで精一杯だった。また、いつか、いつか本当に会える日があったら、そのときは全部、話せると思う。
 きっと、私はもう、大丈夫なんだ。
作品名:尖塔のみえる町で 作家名:MURO