尖塔のみえる町で
5 ケンブリッジで・二十六歳・ドナ 十一月
生徒たちの多くは実際の年齢より、ずっと子供っぽく感じる。私が受け持つクラスはスピーキングが不得手な者が多いため、妙な言い回しや舌足らずな発音のせいで、どうしてもみな幼く見えてしまうのだ。
ユージという日本人もそんな典型だった。彼はほかの日本人同様、文法は非常に得意だったが、話をするのは苦手なようだった。実際、私より数歳若かったが、私の感覚ではもっとずっと年下、高校生くらいにとらえていた。
それだけに、日本人のユカから、ユージが私に想いをよせていると聞かされたときは心底驚いた。あの日本人が私に? 本当に? なぜ? という感じだった。
確かに授業中、彼は私の話に熱心に耳を傾けてくれていた。私は文法よりも、会話主体で授業を進める主義だから、まず、きのうあった出来事やテレビ番組などについて私がしゃべり、それに対してみんなの感想やら意見やらを好きなように発言させるスタイルをとっている。文法はそのあと余った時間で触れる程度にとどめている。
私が教室の真ん中に置いた椅子に腰かけて、みんなのほうを向いて話をするとき、ユージはたいていいつも私の正面の位置に座っていて、私の顔をまっすぐに見ながら聞いてくれた。そして私が話のなかで、笑ってほしいところ、驚いてほしいところ、疑問に感じてほしいところ、そういった要所要所ではちゃんと反応を示してくれた。
生徒のなかには私の話にあまり関心を示さない者もいて、彼らはもっと文法に時間を割いてほしいという不満を持っているのかもしれない。それについて考えすぎると、英語学校の教師として経験の浅い自分は、信念が時折ぐらついて、もっとテキストに沿った授業の進め方を検討すべきではないかという迷いが生じてしまう。
それだけに、私のおしゃべりに興味を示し、真剣に聞いてくれるユージは、心強い味方として私を支えてくれる存在だった。教室での座席は自由なので、彼がいつも私の正面を選んで座っていることは明白で、そういう生徒をクラスのなかに一人でも獲得できれば、教師は再び勇気をもって授業を進めることができるものなのだ。
彼が私に好意を抱いていることくらい私だって気がついてはいたが、それはあくまで教師としての私に対するものであって、一人の女性に対してのものだとは想像したことさえなかった。私のほうも、彼のことを一人の男性として意識したことはなく、むしろちょっとドジで手を貸してやりたくなるかわいい弟のようなイメージが強かったから、ユカの話を聞いて、私はひどく動揺したのだ。
ユカはちょっと風変わりな子で、ユージ本人から聞いたと言ってはいたが、どこまでそれを信用していいのかははっきりとしなかった。
だが、翌日から私がユージのことを意識しながら授業をしなくてはならなくなったのは事実だ。彼の視線をことさら強く感じるようになり、まともに目を合わせることができなくなってしまった。この仕事をするようになって二年ほどたつが、私のほうから生徒に対して特別な感情を持ったことはないし、その逆もまた経験したことはなかっただけに、正直どうしていいのか戸惑った。
一人の教師として、生徒としての彼には好感を抱いていたから、ユカの話が私を不愉快にさせることはもちろんなかった。ただ、私にはつき合っている彼がいたし、たとえいなかったにしても、ユージの気持ちに応えられはずがなかった。彼があと一週間で日本へ帰ることは知っていたから、それまでの間、できるだけ平常心を保って授業を進めれば、それですむと私は思った。
ユージが学校を去る前日、ジュンコがカードを持ってきて、彼へのメッセージを書いてほしいと言った。すでにクラスメイトたちのことばがいくつも書き込まれていたが、私はそのすき間に、「君はとってもキュートでした。いつか、また」と記した。
当日、彼はやはりいつものように私の正面の席に座り、熱心に話に耳を傾けてくれた。授業が終わると、私は彼のもとへ歩み寄り、「これからも英語の勉強を続けるといいわ。君はなかなか優等生だったもの」と言って握手をした。ユージは照れ笑いを浮かべて、ありがとうと礼を言った。
来週からは、この教室に来ても私の正面に、やさしい微笑をたたえた生徒はいないのだと思うと、すこしさみしい気がした。
教室で彼と別れ、教務室で午後のクラスのための準備をしていたとき、もういなくなったとばかり思っていたユージがひょっこり姿をみせ、四角い封筒を差し出した。
「本当にありがとうございました」
そう言い残して、彼はすばやく私の前から立ち去った。
教務室にはだれもいなかったので、私はすぐに封を切った。ひまわりの大きな花が描かれたカードが一枚、そこにはていねいな筆跡で、こんな詩が記されていた。
あなたは明るい花のようでした
それをそっとささやく勇気はなくて
いつも ただ 美しいと眺めるばかり
ああ ぼくの心に気づき 明るい花がしおれてしまわぬうちに
この町から旅立とう 静かに そして永遠に
ユージが私のためにつくった英語の詩のようだった。明るい花……それが私?
ユカの話は本当だったのだ。
私は教務室につっ立ったまま、何度もその詩を読み返した。英語の詩としては決して上手なものではなかったが、彼が私のイメージに合うカードを探し求め、一生懸命詩を書いてくれたと思うと、さすがに胸がいっぱいになった。いままで生徒はもちろん、恋人からも、こんな心のこもったことばを贈られたことはなかった。
最後のフレーズ「この町から旅立とう 静かに そして永遠に」という表現が、ユージのいまの心境を端的に表しているような気がした。彼は私に恋人がいることは知っている。授業のなかで何度か話をしているからだ。だから、彼は「永遠に」私のもとから消え去ろうとしたのだろう。
いつもやさしい微笑をたたえて私の授業をうけてくれたユージ。いまさらながら、陽だまりのような彼の穏やかなあたたかさがひどく尊いものに感じられた。
私は窓の外に目をやった。暗いレンガの壁の上に灰色の雲が広がっている。今にも雨粒が落ちてきそうだ。
手にしたカードを、私はもう一度見つめた。黄色とオレンジであふれんばかりに描かれたひまわりの花。私は腕を伸ばして、それを太陽のない空に向かって掲げてみた。
ユージ、君こそひまわりだったよ。
彼はもうこの学校にやってくることはない。もうじき日本に帰って、二度と私の前に姿をみせることはないのだろう。
さようなら、ユージ。本当にありがとう。この詩は私のかけがえのない宝物です。