夢幻花火
電車を何回か乗り継いで、郊外の駅で下車して、
目的地を同じくする人の列について歩いて、
ようやく会場に着いた頃には、花火大会はすでに始まっていた。
多摩川の河川敷は大勢の人で賑わっている。
家族連れや恋人たちの間をかいくぐり、
土手の一角に、人ひとり座れるぐらいの
小さなスペースをなんとか見つけ出した。
身体を丸めて体育座りし、冷えた缶ビールのプルタブを引く。
しゅわっとした泡がノドを刺激し、
ぼんやりした頭が少しだけ覚めたような気がした。
私は肺の奥底にたまった灰色の気体を一気に吐き出すかのように、
長く深く息を吐きながら、頭上を見上げていた。
夜空にどーんどーんと打ち上がる大輪の花々。
たまに大きな花火が打ち上ると、
観客たちは歓声をあげて盛大な拍手を送る。
私も大衆の一員となるべく、
赤くなるほどに両手のひらをぱちぱちと打ちつける。
人々が嬉々とした表情を浮かべれば、私も一緒に笑顔を作る。
孤独感をやりすごすための方法。
一人でいるのは決して嫌いではない。
だけど、ときに、ふと、
人とのつながりが無性に恋しくなる。
そうしたとき、街へ出かけて人ごみの中にまぎれこむ。
不特定多数の中の一人になれば
寂しい気分から逃れることができる、
そんな気がするからだ。
花火は次々と打ち上げられ、私の手のひらはひりひりし始める。
フィナーレは毎年恒例、花火の百連発。
みんなが一斉に、1から順に数えはじめた。
いぃーちぃ、にぃーい、さぁーん・・
数えるのに少々だれてくる中盤を過ぎ、
90を越えるあたりから、
次第に寂しい気持ちがこみ上げ始めた。
しかし、花火は速度を緩めることなく、
着実に打ち上げ続けられる。
97、98、99、100
ドーンという、終了の合図とともに、
今年の花火大会も、あっけなく終わってしまう。
観客たちはざわめきながら、自宅、あるいは駅へと、
それぞれの方向へ向かって歩き出した。
蟻の行列のような人々の流れは、少なくとも一時間は続く。
駅に行っても、どうせ電車を何本か見送らなければならないだろう。
私はその場に残って、体育座りのまま、夜空を眺めた。
さっきまでの華やかな風景が嘘みたいに、
一面、花火の残した煙で真っ白になっていた。
もやもやした白い層が風に乗ってゆっくり流れて行く。
私は土手に寝転がり、軽い酔いに身を委ね、うとうとする。
夜風がひやりと肌の表面を走った。
はっとして目を開けると、
星がきらきらと輝く夜空が、視界いっぱいに飛び込んできた。
一瞬のあいだ、自分が何処にいるのか分からず、
混乱しながら身を起こした。
そして数秒後、河原の土手で寝入ってしまったことに
ようやく気づくのであった。
辺りを見回すと、河川敷にはもう誰もいなかった。
私一人が取り残されていた。
ちぇっ。
やり場のない灰色な気分を空っぽのビール缶に詰め込んで、
腕をブンと振り、えーい!と思いっきり投げ飛ばす。
ビール缶は、思っていた距離の半分も飛ばなかった。
私は渋々立ち上がり、足取り重く、缶を拾いに歩き出す。
身を屈めて缶を拾い上げたときだった。
後ろから、おーい、と呼ぶ声がした。
振り向くと、土手の上で見知らぬおじさんが歩きながら手を振っている。
何故か彼は土手を降りて、どんどん私の方に近づいてくる。
あからさまに逃げるのも悪い気がして、
私はその場にじっと立っていた。
おじさんはついに私のところまでやってきて、言った。
「そういうときはなぁ、叫ぶんだよ、お嬢さん。」
は?という顔でおじさんを見ると、真面目な顔で繰り返す。
「だから、投げるんじゃなくて、叫ぶんだ。」
彼はそう言って、川の対岸に向かって、
おーい!と大きな声で叫んでみせた。
「ほら、あんたも叫んで。気持ちいいぞ。」
当たり前のようにさらりと促してくるが、
見ず知らずの人間に急にそんなこと言われても、
そうそう簡単に叫べるものではない。
そもそも、私には叫ぶ習慣がない。
前に大きな声を出したのはいつだったか。
ぐるぐる巻き戻される私の記憶は、
小学校の遠足の山登りでようやくストップした。
「いや、でも、なんて叫べばいいか・・」
口ごもる私の背中をばしん!と叩いて、おじさんは言う。
「花火といえば、あれだろ、あれ!」
「やぁ、でも、ちょっと・・」
「ちょっとも、なにもない。あんたが叫んでくれるまで
ここを動かないからな!」
別におじさんが夜通しここにいようと私には関係ないことなのだろうが、
関わってしまった以上、なんだか責任をとらないといけない気がしてしまって、
仕方なく私は、かなり躊躇しながらも「たーまやー」と声に出してみた。
広い場所で声を出すというのは、意外に気持ちがいいものだった。
「そんなちっちゃい声じゃ、聞こえやしないよ。
もっと、腹筋に力をいれて!」
私は、なにやってんだろうと思いつつも、
深く息を吸い、思い切って一気にそれを吐き出してみた。
「たぁーまやぁーー!」
声が夜空に吸い込まれて行く。
すると、なんということか。
ひゅーっという音が鳴ったかと思うと、
夜空にどーんと大きな花火が舞散ったではないか。
目を丸くしてぽかんと夜空を見上げている私の横で、
おじさんが催促する。
「もういっこ、別のやつもあるだろ。」
いちどやってしまえば、あとは楽だった。
私はもう一度息を吸った。
「かぁーぎやぁーーー!!!」
またまた花火が打ち上がった。
訳がわからず、私はおじさんの顔を見た。
おじさんは満足そうににこにこしている。
「どうだい?すっきりしただろ?」
私は、うんうん、と何度も頷く。
「これで、一件落着だ。それじゃあ、気をつけて帰んなよ。」
そう言い残し、おじさんは去って行った。
狐につままれたのか、
夢を見ていただけなのか。
あるいは、あのおじさんは花火師で、
弟子たちが練習のために、
花火を打ち上げただけだったのかもしれない。
真相はなんであれ、私の心が晴れたことは事実だった。
うららかな気持ちで、てくてく歩いて駅へ戻り、
ひとり最終電車に乗り込む。
振り返ると、車窓の向こうに広がる濃紺の空に、
また一つ、大きな花火が打ち上がっていた。