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笑ってよ

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『笑ってよ』

 愛子は普通の幸せを求めていた。サラリーマンの夫、一匹の犬、一軒家、愛子が考える普通の幸せはほとんどが手に入った。だが、子供だけができなかった。どちらに原因があるのか分からなかったが。
 夫に愛人がいることはずっと前からわかっていた。それでも、愛子は幸せを演じていた。ところが、愛人が妊娠した。そこで幸せを演じていた劇に突然幕が下りたのである。
 愛子は愛人の妊娠を知ったとき、嫉妬のあまり、気が狂いそうになった。愛人のところに行き首を絞めて殺す。そんな場面を何度も想像した。それなのに、夫はまるで事務処理でもするかのように、淡々と離婚を言い出したのである。生まれてくる子供のためにと。愛子は「嫌だ!」と怒鳴った。そして、「呪って、呪い殺してやる。女も、その子供も」と毒づいた。
 あまりにも凄まじい鬼気に迫る顔であったので、夫は「お前は狂っている」と言い返し、慌てて家を出た。
 数日後、夫はこの家をくれてやる代わりに離婚に認めろと迫った。資産家の夫にとって、家などたいしたことがなかったのである。
 愛子は悔しくて一人で何度も泣いた。愛人への復讐も何度ども考えた。やがて日常的になった。ふと、ある日、源氏物語の六条御息所の嫉妬を思い出した。
 六条御息所は皇太子の正妻になったが、不幸にも先立たれ、ひとり娘とともに残されてしまう。彼女は美しく、貞淑な女性だった。光源氏は彼女に執拗に言い寄り、ついに六条御息所は身を許してしまう。光源氏は思いを遂げると、彼女への愛が急に冷めた。反対に六条御息所は彼への思いが高まっていった。光源氏は次第に遠ざかり、別の女と肌を重ねてゆく。光源氏の冷たい仕打ちに六条御息所は苦しむが、自制心が強く、誇り高い彼女はそれを隠し平静を装うものの、彼女の中にある怨みの霊が、彼女から離れ出し、光源氏の愛する女性たちを次々と襲い死に陥れる。六条御息所の取り乱した哀れな姿を想像したとき、愛子は急に復讐心が萎えた。同時に夫の提案どおりに離婚を受け入れた。
 
離婚を受けいれたとき、彼女は独りぼっちなった。生き甲斐とは何なのか。分からなくなってしまった。そんなとき、若い男に出会った。依然の彼女なら、相手にしない、ただ楽天的だけが取り柄の男であったが、関係を結んでしまった。その方が簡単に別れることができると考えたからである。だが、ある時、のめり込んでいっている自分に気づいたとき、このままではいけないと思い、抱こうとした彼を軽く突き放した。
「安っぽい女じゃないよ、簡単に抱かないでよ」と。
 男はまるでおあずけを食った犬のような顔した。言った後で彼女は後悔した。本当は抱かれたかったから。
 離婚が成立してしまうと、そのあっけなさに逆にやりきれなさを感じた。離婚で得た家は売った。場所が良かったので、直ぐに買い手がついた。家は直ぐに壊され更地になった。更地になったところを見て、涙がこぼれた。形あるものはいつか崩れる。何もかも永遠のものはない。ずっと前から理解していた。理解したつもりだったが、いざそれを目のあたりにすると、心は激しく揺れた。けれど若い恋人がいた。それが心の支えになっていた。彼のために、新しいマンションを買い、いろんなものをそろえた。まるで一緒にくらしはじめるかのように。どこかで一時の恋ということを忘れてしまったのである。

 若い恋人は最初のうち頻繁に訪れた。が、しばらくしてたまにしか来なくなった。簡単にいえば、男は飽きてしまったのである。肉体だけの関係は簡単に始まり、簡単に終わるのだ。そのとき彼女は気づいた。若い恋人との別れは最初から予感していたことを。それが肌を重ねる度に、いつも愛がもう少し続くと信じてしまったのである。その愚かさに気づいたとき、彼女は一人笑った。笑いながら、涙が止めどうもなく流れた。

 恋人が冗談半分に別れ話を持ち出したとき、愛子は「もう少し夢をみさせてよ。いつか覚める夢であったとしても」とつい甘えてしまった。そのときの惨めな顔を男は見逃さなかった。その日を境にして二人の関係が逆転した。つまり若い男が女を支配するようになったのである。彼は抱くたびに金を無心するようになった。彼女は黙って差し出した。彼が帰った後、その惨めなさを噛み締めた。

 やがて恋人は愛子の気持ちを少しも考えないようになった。そればかりが、気持ちを不用意に踏みにじるような発言も目立つようになった。若い女の話をした。こともあろうに二人で愛し合っているときでさえ。そんなとき愛子は聞こえぬふりをした。それが彼女なりの矜持であったが、同時に男の神経を逆なでにした。ときどき声をあらげて「俺の言うことを聞いていないのか!」怒った。

 孤独から救う愛もあるが、反対に孤独に追い込む愛もある。愛子の恋は明らかに後者に変わっていた。同時に彼女のプライドは崩れていった。

 若さというものを一言で表現するなら、自由だということだ。自由は柵を嫌いあちこち飛び回る。愛子の若いツバメはその好例であった。愛子に対して柵を感じたとき、何の躊躇いもなく『さよなら。もう会わない』とメールをした。
 愛子はいつか破局がくることを予想し、平静に受け入れようとしたが、いざ、その場面が訪れると、まるで乙女のように胸が張り裂けた。鏡を見たとき、心ほど敏感に表情が変わっていないことに驚いた。まるで能面のような顔があった。
 愛子はまた独りぼっちになった。離婚のときはまだやり直せる気がしたが、今度は何かやり直したいという気力すら湧いてこなかった。やがて化粧も服装も気にしなくなった。ある日、鏡を見たとき、そこにずいぶん老けたことに気づきおののいた。が、しばらくして、若い恋人との出会いも別れも何でもないことに思えてきた。ただ、ほんの一時つまらぬ夢を見ただけ。そんなふうにも思えた。
 若いツバメと愛を語り合ったマンションを売り、海辺の町の空き家を買い、近くの小学校の給食のアルバイトを始めた。小学生たちに暗い給食のオバサンと言われたが、気にしなかった。なぜなら、いつの間にか、彼女はただ生きられれば良いと思うようになっていたのである。

 夫と離婚からは三年、若い恋人とは一年の時間が過ぎた初春の休日の朝。窓から弱い日射しが差しこんでいた。絹のような光沢があって、その日溜まりの中で、愛子は写真や日記を懐かしむように眺めた。もう二十年の前のものだろうか。学生の頃の写真があった。どれも笑っていた。
 鏡を覗きこんだ。仮面のように無表情だ。いつの間に笑うことを忘れてしまったことに気づいて涙が流れた。そして鏡の中のもう一人の自分に囁いた。
「笑ってよ」と。





作品名:笑ってよ 作家名:楡井英夫