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終わりのない旅

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『終わりのない旅』

 渡り鳥は地図なしに目的地に行ける。人はそういうわけにはいかない。かつて船乗りは北極星を目印に航海したが、自分には、目印も目的地も持たずに根無し草のように生きている。故郷を離れてからずっと。

 いろんなことがあった。夢も、恋も、どれも夏の花火のように儚く消えた。振り返ると、ただ時間があっという間に過ぎていったような気がする。こうも考える。自分に限らず誰もが、時間という後戻りできない列車に乗った旅人であると。

 子供の頃、田舎で周りに自然以外に何もなかった頃、大人になるのがどんなに待ち遠しかったことか。あの頃と、時間の過ぎる早さが変わったわけではないのに、大人になると、あっという間に過ぎていく。次から次へといろんなことが起こり、それに追われているうちに老いていく。丁度、都会の電車が駅を次々と通り過ぎていくように。

 根無し草のような旅はいつ始まったのだろう。あれは大学四年の夏のことだ。帰省するために列車に乗った。向かい側の座席には、若い母親と小さな男の子が座っていた。
 ぼんやりと、車窓から外を眺めていた。列車は街から離れていくに従い、家並から緑の水田と変わっていった。空は金属のような濃い青色をしていた。風が少し吹いていて、緑の木立の梢を微かに揺らしているが、白い雲はまるで動じない。
 複雑な思いだった。母が望んでいなかった形で就職したことを告げなければならないからだ。母が一緒に暮らすことを期待していたことをずっと前から知っていた。
 幼子が時より自分の方をうかがうように見ていることに気づいた。幼子の瞳は澄んで大きかった。人懐っこいのか、それとも自分が父親にでも似ているのか、こっちも何度も覗き見ては直ぐに顔を隠した。ある瞬間、視線があった。幼子は条件反射的にニコッとしたので、こちらも思わずニコッとした。笑い声を発したかと思うと、恥ずかしいのか、すぐに母親の胸に顔を埋めた。母親は何もなかったように子供の顔を撫ぜたり、髪を撫ぜたりした。しばらく経って、幼子がまたこっちをじっと見て微笑む。突然、思った。自分にもこんなふうに母親に甘えた時期があったことを。

 夕方に家に着いた。
 夕方になっても、いっこうに涼しくならず暑かった。
 気まぐれに風鈴の音がした。
 夕食を済ませた後、
「どこへ就職するの?」と母は聞いた。
「東京だと思う」
 母は黙った。
 しばらくして、「どうして、東京なの?」と聞いた。
「田舎じゃ、良い仕事が見つからない」とつっけんどんに答えた。
 母はそれ以上、何も言わなかった。
 母を見て、あらためてもう若くないことは気づいた。白髪交じっていた。そういえば、随分まえから、脚に水が溜まるとか、目がよく見えないとか、血が濁っているとか、よく愚痴るように呟いていた。それでも、それが老いた証拠だとは気づかなかった。おそらく、あまりにも若すぎて、老いというのを想像できなかったのであろう。就職して二年も経たないうちに、母はあっけなくこの世を去った。死ぬとき、まるで葉をすっかり散らし痩せた老木のような姿だった。あまりにもあっけない最期だった。
 あの時、母の死を予感できたなら、きっと田舎で就職口を探したであろう。しかし、当時は母の死を予感できなかったばかりか、ただ遠くに行くことを夢見ていた。遠くへ……。
 
いつの頃だろう。静かで変わらぬ日々に飽きるようになったのは。小学生のときだろうか。それからというもの、故郷の村を離れることを夢みた。夢はいい。誰でも自由に思い描くことができるから。いろんなことを夢に描いた。あるときは学者、またあるときは冒険家。そんな途方もない夢を息子から聞かされた母はとまどいの色を隠せなかった。
「自分を知らないといけない」と叱った。
 そうだ。もっと自分を知るべきだった。自分を知り、おのれの限界をもっと早く知ることができたなら、きっと田舎の生活に喜びを見出していたかもしれない……。あれから、随分と時が過ぎた。目を閉じれば、まるで昨日のことのように思い出されるのに、村を離れて二〇年という時が過ぎた。

 あれは小学二、三年の夏の日だった。
 みんな海に出かけた。自分が母親に海を見たいと言ったからだ。海に行くには、小さな山を越えねばならかった。その山に行くまで遠い道のりを歩かなければならなかった。 海が見たい、夏の日の青い海を。その思いだけで歩いたような気がする。 海を見たとき、感動した。何かわくわくするような、不思議な気持ちに襲われた。満ち足りた気持ちに……。あれが最初の旅だった。
 
 大学を卒業してからは、いつも旅をしていた。根なし草のように。ここではない、どこかを求めていた。青い鳥を探すことが目的ではなく、ただ旅をすることが目的だったかもしれない。

 年に一度帰る故郷の駅。行き交うのは見知らぬ者だけ知り合いは一人もいない。ここにも自分の居場所がないことを思い知らされる。

 ゴッホは“ただ星を見ていると、僕は訳もなく夢想するのだ。なぜ蒼穹に光り輝くあの点が、フランスの地図の黒い点より近づき難いのだろうか、僕はそう思う。汽車に乗って、どこかへ行けるはずだ。死んでしまえば、汽車に乗れないのと同様に生きている限りは星には行けない”と言った。

 自分はどこに行きたいのか、未だに分からない。きっと死ぬまで分からないと思う。自分の場所を求める終わりのない旅かもしれない。
 






作品名:終わりのない旅 作家名:楡井英夫