想い人に豪雨
この数日間の雨は、"10年ぶりの豪雨"らしいと、今朝のニュースで言っていた。私は小学生の途中でこの街に引っ越してきたから、友達が「あれはすごかった」と語る、その時の豪雨のことをよく知らない。だから少しばかり不安だった。
おまけに今日は、職員室に呼び出されて、放課後いつも一緒の友達が先に帰ってしまった。私は昇降口で、激しい雨がコンクリートの校舎を叩く音を聞きながら途方に暮れていた。空は暗く、時々稲妻があたりを照らしている。こんな、傘も役に立たないような、ニュースで報道されるほどの豪雨の中を、ひとりで歩いて家に帰り着くことなんて、できるだろうか。
「何してるの」
話しかけられて振り向けば、そこには同じクラス、隣の席の栖川が立っていた。そういえば、この人もさっき職員室で別の先生と話しているのを見かけた。
「もう少し、雨が弱まるのを待とうと思って」
「この雨は弱くならないよ」
当たり前のように、栖川は言った。
「そのうちに川が氾濫して帰れなくなるよ。まあ、それでもいいなら残ってたら」
そんなのなぜわかる、と私が疑ったのが伝わったらしく、栖川は「10年前とよく似てるから」と付け足した。
栖川と一緒に歩き出して、すぐに後悔した。雨は想像以上にひどい降り方で、まさに「バケツをひっくり返したような」雨だった。雨の一粒一粒が異常に重くて傘を持っているのも大変で、そのくせに時々吹く横風で制服はすぐびしょびしょになった。
「そういえば、どうして職員室にいたの?」
二人きりの沈黙が気まずくて、話しかける。一度目は無反応だったので、雨の音にも負けないような大声でもう一度訊いた。
「どうしてって、先生に呼ばれたからに決まってるだろ」
「そうじゃなくて、どんな用事だったのかなって」
「そんなこと、なんで言わないといけないのさ」
栖川との会話は、教室にいるときもいつもこんな調子だった。大して面白いことも言ってくれないし、こちらが期待するような応えも返ってこない。それでも、なぜか私は栖川と話すのをやめなかった。
栖川は、簡単にいうと少し変わっている人だ。クラスに友達がいないわけではないはずなのに、気がつくといつも一人でいる。休み時間に窓の外をぼうっと見ながらお弁当を食べていたり、授業中に堂々とイヤホンをつけていて音楽プレーヤーを取り上げられたりしている。一番驚いたのはいつかの帰り道、そう、この川の河川敷で、ひとりで座ってタンポポの綿毛を吹いていたのを見つけた時――
歩きながらその川を見て、思わず思考が止まった。あの日ののどかな河川敷なんか、もう完全に消えていた。水位はどれほど上がったのだろうか、茶色く濁った水が、泡立ちながら激しく轟音を立てていた。
「落ちたら死ぬよ」
栖川はさらりと恐ろしいことを口にした。私は何も言えず、栖川の後ろにぴったりついて、コンクリート製の橋を渡った。
橋を渡り終えると、少し大きな交差点に出る。けれど、さすがにこの豪雨の中、通行している人や車はいなかった。雨の音が耳に痛いほどうるさいのに街の雰囲気は静かすぎて、栖川がいなかったら、私は本当に心細くて家にたどり着けなかったかもしれないと思った。交差点を過ぎると私の家まではそこまで距離がなく、あと少しとはやる心から自然に足も早まった。
ふと気づくと、栖川の姿が視界から消えていた。いつの間に私が追い越したんだろう、と思ったけれど、後ろを見ても、栖川はいなかった。素早く辺りを見回したけれど、気配すらも激しい雨の中から見つけることができなかった。
ひとりになってしまった――いつもと違う世界で、私も、栖川もひとりきりになってしまった。遠くで雷が鳴り、数倍重くなった雨音が傘を叩いた。急に今まで忘れていた恐怖を覚えて、私は栖川を探しに来た道を戻った。
交差点まで来て橋の方を見ると、川の水はつい数分前までよりも明らかに増え、流れはいっそう激しさを増していた。堤防のすぐ下まで水が来ている――そして、栖川の姿をその中に見つけて、思わず「あっ」と声を上げてしまった。
栖川は、向こう岸の土手から河川敷に向かう石段の途中に立っていた。ただ、棒立ちで、轟音を立てて流れる川を見ながら突っ立っていた。そして、濁った水はその足元のわずか数十センチ下に迫っている。
信号が青に変わると同時に、必死で走った。橋を渡り、堤防を走り、一秒も止まらずに栖川のもとにたどり着く。傘は走るのにとても邪魔だったので途中で捨ててしまった。
「栖川っ」
石段を駆け下りながら、叫んだ。栖川が振りかえった。どうやら私の声は届いたらしい。
栖川の手を引き、石段を登る。不思議とこのときだけは、目前に迫っている濁流を見ても、恐怖は感じなかった。栖川は引きずられるようにしてついてくる。もう、すぐにでも、溢れた川が雨が栖川を追いかけてくるような気がして、必死で走った。走って、走って、橋を渡りきって、振り向くと、さっきまで私たちがいた石段は完全に濁流の中に消えていた。
栖川はまだ、向こう岸を見つめていた。何か私の知らないものを見ながら。止まっちゃだめだ、もう川が氾濫しそうで、ここも危ない。私は栖川を無理やり引っ張って歩きながら、心の中で空に向かって叫んでいた。
もうやめて。これ以上雨を降らせないで。――栖川を連れていかないで。
ああ、こんな風に思うなんて、きっと今日は無事に終わっても忘れられない一日になるだろう。
「10年前まで、あそこにうちのじいちゃんの畑があったんだ」
丘の上にある私の家に着き、玄関に腰をおろして休んでいると、栖川が言った。私は、"10年前"のことを何も知らない。
「父さんが生まれるずっと前に、じいちゃんの兄ちゃんがあそこで連れていかれた。やっぱり、そのときもものすごい雨の日だったらしい。じいちゃんは兄ちゃんの好きだった川で野菜を育ててるんだって言ってた。けど、じいちゃんも連れてかれてしまったんだ。畑と一緒に、兄ちゃんと一緒に」
そういえば、あれは河川敷のどのあたりだっただろうか。栖川が一人でタンポポの綿毛を吹いていたのは。
「……栖川は、おじいさんが好きだったんだね」
「そう、俺、おじいちゃん子だった。よくわかったね」
栖川が今日初めて笑ったと思ったら、雨の音が聞こえなくなっていた。立ちあがると、靴の中からしみ出した水が足の裏に気持ち悪くて、顔をしかめながら外に出た。
外は、さっきまでとはまるきり別の世界だった。数十分までの天気が信じられないくらいの快晴だった。この様子だと、川の水はぎりぎり堤防を越えなかっただろう。空には虹がかかっていて、私と栖川はしばらく言葉もなく立ちつくし、それを眺めていた。虹が消えてしまうのを見届けると、栖川は私の顔を見て、一言だけ言った。
「じゃあ……今日はありがとう」
私は何も言わずに頷き、小さく手を振った。その右手をほんの少しかすめた熱に気付きながら。やがて、まだ少し湿った空気の街の中に、栖川は消えていった。