初夏
「靴紐がほどけてますよ」
ぼんやりした意識の中に、たったいま走り去った方角から、思いがけず、一つの声が入り込んできた。私は走る速度をゆるめ、そして、止まった。背後からトツトツトツと足音が聞こえてきた。振り返ると、そこに立っていたのは、学生服に身を包んだ少年だった。濃紺のブレザーにダブルストライプのエンジ色のネクタイ。このまま大人になればウォール街の証券マンといったところだ。しかし実際は見たところ十五才前後、中学生か高校生かという境目ぐらいだ。私が未だ半分ぼんやりした意識のまま無表情で少年の素性を品定めしていると、少年は小さく微笑んでもう一度言った。
「靴紐が。ほどけちゃってますよ。」
しょうがないな、というような笑みを口の端に見せ、彼はおもむろに身を屈めて、私のほどけた靴紐を手に取った。ごつごつした細く長い指で、二本の紐の両端をひゅっとつまみ上げ、器用にくるくると結び、最後にギュッと固く締める。これでよし、というふうに軽く頷いて、彼は身を起こした。体温が感じ取れるくらいの距離。本能的に私は身を固くする。私よりも20センチくらい背が高く、上から見下ろされると、自分よりずっと年少だと分かってはいるが、自分とは別の性なのだと意識しないわけにはいかない。意志とは裏腹に瞬間的に頬がカッと熱くなる。悟られてはいけないと、なんとか鼓動を押さえようとする私に対して、彼は畳み掛けるような行動を取る。
「息を切らすほど走っちゃダメだよ。速く走るより、長く走る方がいいんだって、知ってる?」
彼は私の顎を掌で持ち上げ、唇を寄せてきた。思いがけず冷たい感触が、熱を持った体に心地よい。一分二分、口の隙間から彼の舌が入り込んでくる。五分六分、絡み合う舌と舌、唇と唇の濃密で優しい接触。十分、ふと我に帰った私は、彼の体を両腕で突き放した。やってはいけないことをしてしまったという罪悪感。それを察したように彼は言う。
「誰も責めないよ。誰かが責めたら、僕が弁護する。」
そう言って、彼は年に似合わない大人びた笑みを見せた。・・証券マンではなくて、弁護士か。いずれにせよ、女泣かせの男になることは必至だろう。彼の最初の女は私か、それとも、ほかの誰かか。それともこれは単なる夢だったのか?