敬四郎、参る!!~花吹雪に散る恋~・其の一
蓼(たで)
花言葉―健康、節操。九月二十五日の誕生花
第一話
赤まんま
眉月の出逢い
女人の細い爪先(つめさき)を思わせる眉月が紺碧の夜空を飾っている。かすかに朧に滲んだその月をじいっと眺めていると、嫌が上にも、あの日の忌まわしい記憶が身の内から甦ってくる。
そう、気の遠くなるような長い年月の彼方へと押しやったはずの、あの記憶。十四年前のあの一瞬の。
十四年前のあの夜、敬資郎はまだ七歳になったばかりのいとけなき少年にすぎなかった。あの時、自分がもっと成長していたなら、せめて今の自分であれば、人ひとりの生命が失われることはなかっただろう。
あの日、屋敷―敬資郎の父稲葉(いなば)泰(たい)膳(ぜん)の住まいに忍び入った賊は一人の女性の生命を奪い去った。美しい―、夜空を冴え冴えと照らす清(さや)かな月のような女であった。敬資郎は、そのひとを〝母〟と呼んでいた。よもや、優しく頭(つむり)を撫でてくれたその女(ひと)が己れの真の母ではないとなど考えたこともなかった。
母が亡くなった日、父泰膳は息子に告げた。
―そなたは、我らが実の子ではない。七年前、さるやんごとなきお方より、我が子として育てよと命じられ、お預かりした大切な預かり人だ。
泰膳に生まれたばかりの赤児を託したのは当時の将軍家徳川家(いえ)連(つら)であった。当時、家連には一人の公子も姫もいなかった。むろん、既に四十路も半ばに達しようとしていた彼は過去に数人の子を側室たちとの間に儲けている。正確に言えば、姫君は五人、若君は三人。
しかし、いずれの子も十五歳になるまで成長できず、すべてが早世した。とりわけ公子たちの寿命は短く、三人の若君は三人ともに三歳、五歳、九歳と十歳までも生き存えられていない。その死因も剣呑さに満ちていて、どの公子も毒を盛られたのではないかと見られている。
むろん、江戸城大奥においても再び同じ禍事が起こらぬようにと細心の注意を払ったものの、何故か毒は巧妙に公子たちの飲食物に潜められた。あるときはお八ツの干菓子だったり、あるときは朝餉の汁物であったりしたのだ。姫君たちの中には十数歳で他の大名家に降嫁した者もいたのだが―、彼女たちもまた、婚家で次々に不審な死を遂げている。
これはどう見ても、将軍家の血を根絶やしにするつもり―何者かが邪な企みを抱(いだ)いているとしか考えられない。このままでは徳川宗家の血は根絶やしにされてしまう。
強い危機感を憶えた家連公は四十六歳で得た末子を信頼のできる家臣稲葉泰膳に託したのだった。泰膳は家連の乳母を務めた右京局の息子であり、当時は、お側用人を務めるほどの信頼と権勢を得ていた。
生来内向的で気難しく、周囲の人間に心を開こうとしない家連が唯一、何でも打ち明け頼りとしていた存在が、この乳兄弟でもある泰膳であった。天下人のただ一人の相談役ともなれば、泰膳に自ずと権力が集まったのも納得はいく。
泰膳その人は己れの立場にも驕ることのない謙虚な人柄ではあったが、〝お気の弱い上さまを己れの意のままに動かして操る将軍家獅子身中の虫〟とやっかんで陰口を叩かれることさえあったのだ。
その泰膳が何故か突然、将軍の烈しい勘気を蒙り政界を退いたのは、泰膳が四十七のときのことである。そして、丁度、その頃、泰膳の奥方が子を生んでいる。泰膳にとっては結婚以来、二十五年目にして得た嫡男であり、初子を生んだ正室お郁は既に三十八に達していた。
だが、お郁の生んだとされるその長男こそが、時の将軍家連の第四子敬四郎であった。家連は、ただ一人の我が子に〝敬四郎〟という名と錦の袋に納まったひとふりの小太刀を与え、その見事な細工の太刀の柄(つか)の部分には小さく葵の紋―即ち徳川家の家紋が彫り込まれていた。
家連の深慮が功を奏し、泰膳に預けられた公子はすくすくと生い立った。泰膳は己れの持てる知識・剣術、すべてのものを幼い息子に伝授した。やがて時至れば、この子は天下をその肩に背負って立つ公方さまとなられる―、天下人として遜色なきだけの人物にと泰膳は敬四郎改め敬資郎の養育に、残りの人生のすべてを賭けたのである。
その努力の賜といおうか、敬資郎は秀れた青年へと成長した。人としての道理も情もわきまえ、文武両道においても抜きん出ている。
―稲葉どのはまたとない跡継ぎを持たれた。
と、世間の人からも羨ましがられた。
しかし、自分が今日あるのは、すべての十四年前の〝母〟と呼ぶ人の犠牲があったからだと敬資郎は知っている。十四年前の夜半、屋敷に潜入した刺客から身を挺して自分を庇い、そして凶刃に倒れた母。凜とした美しさに裏打ちされた強さを持つ気高い女性であった。
同時に、実子ではない敬資郎を慈しみ深く愛し育ててくれた優しい女でもあった。
敬資郎の生母は家連の側室の一人であったが、元々、家連の寵愛も関心も薄かった。それでも見事に将軍の世継を生んだので、大切に遇されたものの、敬四郎を出産後三年して儚くなったという。
彼にとってみれば、一度も顔を見たことのない生母よりも、七年もの間、愛情深く育ててくれたお郁の方がよほど慕わしかった。いや、生母には酷なようだが、敬資郎にとっては〝母〟と呼べるのはお郁ただ一人だろう。
十四年前の夜、彼は自分に今しも振り下ろされようとする白刃のきらめきを見た。ついで、〝敬資郎ッ〟と悲鳴のような絶叫が聞こえ、咄嗟にその刃から守ろうとするように自分の小さな身体が母の懐に抱き込まれ、すっぽりと包み込まれたのを憶えている。
一面に飛び散った母の血、背中からばっさりと袈裟掛けに斬られてもなお、自分を離そうとしなかった母の両手の力強さと温もり。それらのすべてが今もなお、敬資郎の心を揺さぶる。
あの夜、息絶えてもまだ自分を庇おうと懸命に抱きしめ続けていた母のか細い肩越しにかいま見た繊細な三日月。
二十一歳になった今も、あの夜、幼い心にくっきりと刻み込まれたのと同じ細い月を眼にする度、心がふるえ、血の涙を流す。〝母上ッ、母上〟と物言わぬ母に取り縋り号泣したあの日の言い知れぬ哀しみが切々と身の内に甦るのだ。
母を殺したのが誰なのか。父泰膳は敬資郎にそれを知ろうとしてはならないと幾度も釘を刺した。
―公方さまは誤解され易いお方なのだ。
泰膳だけが〝暗愚〟と囁かれる家連の孤独と悲哀をよく理解していた。けして無能ではないのに、感情表現が著しく苦手なため、周囲との意思疎通がうまくできない。そのため、皆から〝何をお考えになっているのか判らない〟と言われるのだ。
そんな家連を側用人稲葉泰膳が意のままに操り、家連は〝そうせい〟とか〝良きに計らえ〟とただ泰膳の言葉に躍らされるだけだ。そのせいで、家連は江戸の町民たちからまで〝そうせい公〟とか〝下馬将軍〟と半ば揶揄と蔑みを込めて呼ばれていた。
事実無根ではあるが、幕閣の主要人物から果ては庶民たちに至るまで、当時はそれが家連と泰膳に対するごく一般的認識だった。
家連の子女―敬資郎にとっては顔も知らぬ兄姉の生命を奪ったのは、そんな家連を暗君だと決めつけ別の人物を次の将軍位につけようとする輩どもだったのである。
花言葉―健康、節操。九月二十五日の誕生花
第一話
赤まんま
眉月の出逢い
女人の細い爪先(つめさき)を思わせる眉月が紺碧の夜空を飾っている。かすかに朧に滲んだその月をじいっと眺めていると、嫌が上にも、あの日の忌まわしい記憶が身の内から甦ってくる。
そう、気の遠くなるような長い年月の彼方へと押しやったはずの、あの記憶。十四年前のあの一瞬の。
十四年前のあの夜、敬資郎はまだ七歳になったばかりのいとけなき少年にすぎなかった。あの時、自分がもっと成長していたなら、せめて今の自分であれば、人ひとりの生命が失われることはなかっただろう。
あの日、屋敷―敬資郎の父稲葉(いなば)泰(たい)膳(ぜん)の住まいに忍び入った賊は一人の女性の生命を奪い去った。美しい―、夜空を冴え冴えと照らす清(さや)かな月のような女であった。敬資郎は、そのひとを〝母〟と呼んでいた。よもや、優しく頭(つむり)を撫でてくれたその女(ひと)が己れの真の母ではないとなど考えたこともなかった。
母が亡くなった日、父泰膳は息子に告げた。
―そなたは、我らが実の子ではない。七年前、さるやんごとなきお方より、我が子として育てよと命じられ、お預かりした大切な預かり人だ。
泰膳に生まれたばかりの赤児を託したのは当時の将軍家徳川家(いえ)連(つら)であった。当時、家連には一人の公子も姫もいなかった。むろん、既に四十路も半ばに達しようとしていた彼は過去に数人の子を側室たちとの間に儲けている。正確に言えば、姫君は五人、若君は三人。
しかし、いずれの子も十五歳になるまで成長できず、すべてが早世した。とりわけ公子たちの寿命は短く、三人の若君は三人ともに三歳、五歳、九歳と十歳までも生き存えられていない。その死因も剣呑さに満ちていて、どの公子も毒を盛られたのではないかと見られている。
むろん、江戸城大奥においても再び同じ禍事が起こらぬようにと細心の注意を払ったものの、何故か毒は巧妙に公子たちの飲食物に潜められた。あるときはお八ツの干菓子だったり、あるときは朝餉の汁物であったりしたのだ。姫君たちの中には十数歳で他の大名家に降嫁した者もいたのだが―、彼女たちもまた、婚家で次々に不審な死を遂げている。
これはどう見ても、将軍家の血を根絶やしにするつもり―何者かが邪な企みを抱(いだ)いているとしか考えられない。このままでは徳川宗家の血は根絶やしにされてしまう。
強い危機感を憶えた家連公は四十六歳で得た末子を信頼のできる家臣稲葉泰膳に託したのだった。泰膳は家連の乳母を務めた右京局の息子であり、当時は、お側用人を務めるほどの信頼と権勢を得ていた。
生来内向的で気難しく、周囲の人間に心を開こうとしない家連が唯一、何でも打ち明け頼りとしていた存在が、この乳兄弟でもある泰膳であった。天下人のただ一人の相談役ともなれば、泰膳に自ずと権力が集まったのも納得はいく。
泰膳その人は己れの立場にも驕ることのない謙虚な人柄ではあったが、〝お気の弱い上さまを己れの意のままに動かして操る将軍家獅子身中の虫〟とやっかんで陰口を叩かれることさえあったのだ。
その泰膳が何故か突然、将軍の烈しい勘気を蒙り政界を退いたのは、泰膳が四十七のときのことである。そして、丁度、その頃、泰膳の奥方が子を生んでいる。泰膳にとっては結婚以来、二十五年目にして得た嫡男であり、初子を生んだ正室お郁は既に三十八に達していた。
だが、お郁の生んだとされるその長男こそが、時の将軍家連の第四子敬四郎であった。家連は、ただ一人の我が子に〝敬四郎〟という名と錦の袋に納まったひとふりの小太刀を与え、その見事な細工の太刀の柄(つか)の部分には小さく葵の紋―即ち徳川家の家紋が彫り込まれていた。
家連の深慮が功を奏し、泰膳に預けられた公子はすくすくと生い立った。泰膳は己れの持てる知識・剣術、すべてのものを幼い息子に伝授した。やがて時至れば、この子は天下をその肩に背負って立つ公方さまとなられる―、天下人として遜色なきだけの人物にと泰膳は敬四郎改め敬資郎の養育に、残りの人生のすべてを賭けたのである。
その努力の賜といおうか、敬資郎は秀れた青年へと成長した。人としての道理も情もわきまえ、文武両道においても抜きん出ている。
―稲葉どのはまたとない跡継ぎを持たれた。
と、世間の人からも羨ましがられた。
しかし、自分が今日あるのは、すべての十四年前の〝母〟と呼ぶ人の犠牲があったからだと敬資郎は知っている。十四年前の夜半、屋敷に潜入した刺客から身を挺して自分を庇い、そして凶刃に倒れた母。凜とした美しさに裏打ちされた強さを持つ気高い女性であった。
同時に、実子ではない敬資郎を慈しみ深く愛し育ててくれた優しい女でもあった。
敬資郎の生母は家連の側室の一人であったが、元々、家連の寵愛も関心も薄かった。それでも見事に将軍の世継を生んだので、大切に遇されたものの、敬四郎を出産後三年して儚くなったという。
彼にとってみれば、一度も顔を見たことのない生母よりも、七年もの間、愛情深く育ててくれたお郁の方がよほど慕わしかった。いや、生母には酷なようだが、敬資郎にとっては〝母〟と呼べるのはお郁ただ一人だろう。
十四年前の夜、彼は自分に今しも振り下ろされようとする白刃のきらめきを見た。ついで、〝敬資郎ッ〟と悲鳴のような絶叫が聞こえ、咄嗟にその刃から守ろうとするように自分の小さな身体が母の懐に抱き込まれ、すっぽりと包み込まれたのを憶えている。
一面に飛び散った母の血、背中からばっさりと袈裟掛けに斬られてもなお、自分を離そうとしなかった母の両手の力強さと温もり。それらのすべてが今もなお、敬資郎の心を揺さぶる。
あの夜、息絶えてもまだ自分を庇おうと懸命に抱きしめ続けていた母のか細い肩越しにかいま見た繊細な三日月。
二十一歳になった今も、あの夜、幼い心にくっきりと刻み込まれたのと同じ細い月を眼にする度、心がふるえ、血の涙を流す。〝母上ッ、母上〟と物言わぬ母に取り縋り号泣したあの日の言い知れぬ哀しみが切々と身の内に甦るのだ。
母を殺したのが誰なのか。父泰膳は敬資郎にそれを知ろうとしてはならないと幾度も釘を刺した。
―公方さまは誤解され易いお方なのだ。
泰膳だけが〝暗愚〟と囁かれる家連の孤独と悲哀をよく理解していた。けして無能ではないのに、感情表現が著しく苦手なため、周囲との意思疎通がうまくできない。そのため、皆から〝何をお考えになっているのか判らない〟と言われるのだ。
そんな家連を側用人稲葉泰膳が意のままに操り、家連は〝そうせい〟とか〝良きに計らえ〟とただ泰膳の言葉に躍らされるだけだ。そのせいで、家連は江戸の町民たちからまで〝そうせい公〟とか〝下馬将軍〟と半ば揶揄と蔑みを込めて呼ばれていた。
事実無根ではあるが、幕閣の主要人物から果ては庶民たちに至るまで、当時はそれが家連と泰膳に対するごく一般的認識だった。
家連の子女―敬資郎にとっては顔も知らぬ兄姉の生命を奪ったのは、そんな家連を暗君だと決めつけ別の人物を次の将軍位につけようとする輩どもだったのである。
作品名:敬四郎、参る!!~花吹雪に散る恋~・其の一 作家名:東 めぐみ