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初恋

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『初恋』

ヤヨイの部屋から海が見える。小さい頃から、何もすることがないと、ぼんやりと部屋の窓辺に立って、船が行き交う海を眺めた。冬の荒れ狂う鈍色の海は嫌いだったけれど、春、夏、秋の微妙に異なる青い海は好きだった。それに海は遠くの見知らぬ国に繋がっているから。いつの頃か、ここではない、遠くを夢をみるようになった……。

十二歳の時である。夜、遅くなっても帰宅しないヤヨイを心配して、父が探しに行ったが、その際、運悪く車にはねられて脚が不自由になってしまった。脚を引きずる父の姿を見る度にヤヨイの胸は痛んだ。そして、もう二度と父を心配させまいと固く誓った。その誓いはいつしか、ヤヨイ自身を歪めていった。さらに、家からあまり出ず、遊ばない生活は、籠の中の鳥のような息苦しさを感じていった。遠くの大学へ行きたかったが、父の希望通りに地元もつまらぬ大学に入った。二十一年間、ヤヨイは父の希望する通りに生きた。そして自由に恋さえしたことがなかった。
自由への憧れ。それは浜辺に戯れる幼子のように似ている。自由という名の波に向かってみるが、いざ打ち寄せてくると怖がってあわてて逃げ出す。
息苦しい。いらいらする。誰もそのことに気づいてくれない。母も、父も! そして何よりも悲しいことは心を許せる唯一の親友ももうこの世にはいない。この地上でたった独りぼっちだ。
 どこかで自分をめちゃくちゃにしたい。どこか見知らぬ国で自分を確かめてみたい。船に乗って遠くへ行って…大人になるにつれ、窓から港に行き交う船を眺める日が多くなった。

二十一歳の夏が来た。
その日は、朝から眩しい光が射している。
ヤヨイが青い海を見ると、一隻の白い帆船が港に入いろうとしているのが見えた。
「なんていう名の船かしら?」と誰もいないのについ口走った。
いつから身に付けた癖なのか、誰もいないとき、無意識のうちに、もう一人の自分に向かって話をするようになっていた。
「ねえ、どこか、遠くへ行きたいと思わない?」
「どこへ?」
「どこでもいいの」
「変ね、ヤヨイったら、いつもだけど」
「ときどきいやになるの、来る日も来る日も、ずっと家の中にいて」
「その気持ち、少しは分かるわ、だってヤヨイのお父さん、厳しいもの」
「あーぁ、青い海のずっと向こうに行ってみたい」
「でも、そんなことをしたら、ヤヨイのお父さんは悲しむと思うわ」
「夢よ、そんなことはできないと思う、だって、お父さんは…」と口をつぐんだ。
 レールの上を走る列車のように、いつまで父の敷いたレールを走り続けるのか? 父が死んだら、父の言いなりに生きて来た自分が独りで生きて行けるのか? 将来に対する不安があれこれとよぎる。
   
雨は降って止んで、また降る。そんな繰り返しを続けているうち、八月の半ばを過ぎて、ようやく晴れた。朝から強い日差しが差している。
日差しに誘われるかのように、ヤヨイは海辺に出かけた。すると、一人の青年に会った。日焼けして、たくましい肉体をした青年である。汗くさいシャツとジーパン姿でタバコを吸いながら海を見ていた。ヤヨイは知らず知らずのうちに彼を眺めていた。ヤヨイの視線に気づいた彼は、振り向き微笑んだ。決してハンサムな男ではなかったが、前、夢に出てきた男に似ていた。男が話し掛けてきた。ふだんの彼女なら、何も答えなかっただろう。が、その日は気持ちが妙に高ぶっていた。それが一体何のかは分からなかったが、いつもとは違って、男の誘いに乗って、男に付いて行った。
夜となった。ヤヨイを乗せた車が海岸線を走った。帰らないと思いながら、ヤヨイはそれを言葉に出来なかった。
人影もないところに男は車を止めた。彼女の方を見て、何も言わずに抱きしめた。ほんの一瞬だったが、キスもした。全てが想定外だった。
「下ろしてください。もう帰らなくちゃ!」と叫んだ。
「送るよ。家まで」
「いいです。ここで、歩いて帰りますから」
「また会える?」と男は言った。
ヤヨイは振り向いたものの答えなかった。けれど、心のどこかで、その言葉を期待していた。

その夜、夢を見た。森のように深い木立に囲まれていたところに井戸があった。そこは覗き込んでいけないと言われた井戸である。いけないと思いながら勝手に体が動く。何があるだろうという期待に胸を弾ませ、おそるおそる覗き込む。顔を少しずつ近づける。胸は否応なしに高まる。あっと思った瞬間に夢は覚める。――目覚めるとベッドは汗でびっしょりと濡れている。何を見たのか思いだそうとするがよく分からない。が、唯一、言えるのは、禁じられたことを犯すことの不思議な喜びである。
ずっと大人の恋への憧れがあった。けれど、いつもためらっていた。しかし、もう二十一だ。友達の一人は子供さえ産んだのに、自分はまだ恋さえ知らない。これからも厳格な父の言いつけを守っていたなら、ずっと恋を知ることはないだろうと悲観した。

男とキスをした三日目の朝のことである。
朝食の席で、父親から「親戚の家に不幸があって、これからすぐに出かる。夜も帰りが遅くなる」と言われ、ヤヨイの心の中で何か浮き立った。
「どうした?」
「何が?」
「何か嬉しそうな顔をして」
「いいえ、何でもありません、お父様」
「そうか、絶対に十時までは、家に帰って鍵を掛けておくんだぞ」
「はい、お父様」
そして、夜、美しい月が部屋の妖しい光が射している。月を眺めながら、ヤヨイはぼんやりとあのキスのことを考えた。あれは、ほんの一夜の夢。得体の知れない男、日に焼けて褐色の肌の男、粗野で、どう考えても自分とは釣り合わない。そう自分に言い聞かせて必死に忘れようと努めた。
窓を閉め、カーテンも閉じた。
目を閉じた。あの男の姿が瞼にはっくりと浮かんだ。あの潮の匂いのする胸とともに。ヤヨイは確信した。自分が本当に恋してしまったことを。素性も満足に知らぬのに。馬鹿げた狂気だと思ったが、同時に、自分の意思で自分の道を歩き始めていることに何かしらの満足感のようなものも感じずにはいられなかった。
電話しようと思ったとき、既に電話をかけていた。


作品名:初恋 作家名:楡井英夫