サルスエラの雫
囚人はぶっきら棒に言った。
カウンセラーは、語りかけても返答がないことが多い彼が、自分から話しかけてきたこと、そして、それが、質問であることに、少なからず驚いていた。
「『サルスエラ』……ですか。聞きなれない言葉ですね。それが、何か?」
「いや、いい。いいんだ」
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「『サルスエラ』について調べて来ましたよ」
「実在する言葉なのか?」
「はい。スペインのオペラで、イタリア語ではなくスペイン語を用いること、音楽と比べてセリフの方が重要視されることが、特徴です」
「本当か?」
「本当ですとも。ところで、こんな言葉、どこで聞いたんですか? あなたは独房にいて、許される範囲のものすら読もうとしない。看守の誰かが話していたのですか?」
「いや、なんでもない」
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「その後、いかがですか?」
ゆったりとカウンセラーが切り出すと、囚人は、そわそわしだした。
「こんな話、したくないんだが、あんたは心理学とかに詳しいわけだよな?」
「まぁ、だから、こうしてここに居る訳ですが」
「繰り返し同じ夢を見る」
「ほぅ、どのような夢を?」
「女が隣にいる。知らない女だ。そして、2人でオペラを見に行く。そのオペラのことを、その女は『サルスエラ』と言っていた。俺は、そんな言葉を聞いたことがないのに……」
「興味深い事例ですね。おっと、失礼。職業柄、つい……。で、その他に、何か特徴はありますか?」
「いや、いい。やはり、いい」
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「やっぱり、あれは、夢じゃねぇ」
囚人はカウンセラーの目を少し下から睨み付けるように、真っ直ぐ見た。
「あの繰り返し見る夢ですか?」
「夢だと思っていたが、……違う。臭いがある。街の臭い、俺の汗の臭い、女の香水の匂い。それだけじゃねぇ、女と交わした口づけの感触、味。強すぎる日差しで焼ける肌。五感のすべてが思い出せる。そうあれは思い出だ。過去に経験したこととしか思えない」
「では、実際に体験したことなのではないですか?」
「そんなはずはねぇ。俺は、ただの一歩も日本から出たことなんかねぇ。それに、あんな女、見たこともねぇって言ったろう? それに、……」
「それに?」
「俺があの女を見たときに、感じたもの。あれは……、何だ? 俺は、誰かに対して、あんな気持ちになったことはない。あれは、何なんだ?」
「それが、人を愛しいと思う気持ちです」
「何? どういうことだ? 俺は、まだ、そんなに詳しく夢の話をしていないのに、なぜそんなことが言える?」
「なぜなら、その女は私の妻だからです。そして、その記憶は私のものだからです」
「なんだって?」
「技術の進歩はすごいものですね。他人の記憶を、他の誰かにダウンロードできるようになったのです。この前、脳波を測った時に入れさせていただきました」
「なぜ、そんなことを……。はっはーん。なるほどね。つまり、こういうことだろう。俺に『愛』とやらを教えて更生させようってんだな。無駄なことを。俺は死刑囚だぞ」
カウンセラーは目を閉じ、ゆっくり首を左右に振った。
「カウンセリングしていて、あなたは、悔いることもなく、死も全く恐れていないことが分かりました。なぜだろうかと考えたとき、あなたが誰からも愛されたことがなく、だれも愛したことがないからだと分かりました。このまま死刑が執行されても、あなたに殺された人々は浮かばれないと考えました」
「だから?」
「だから、いくら渇望しても手に入らない幸福を、ほんの一滴だけ与えたのです。『絶望』を味わっていただくために」