Slow Luv Op.4
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さく也が着替えて寝室を出ると、ピアノの音が部屋に充満していた。
アップライト・ピアノの前にユアンが座っていた。長い指が鍵盤をガシガシと掴み、情緒も何も無視して、ただフォルテで弾き続ける。ベートーヴェンのせっかくの名曲は、騒音となって壁を叩いた。ここが演奏家専用の、古いながらも防音仕様のアパートでなければ、隣近所から苦情が来るほどに。そう言う風にして、彼なりに昂ぶった気持ちを抑えようとしているのだ。ユアンのこの状態がしばらく続くことを知っているさく也は、キッチンに入った。
二人分のコーヒーを入れて、カップの一つをピアノの上に置いた。
ユアンの手が止まった。傍らに立ったさく也を見る。手は鍵盤から離れ、さく也の頬に伸びた。冷たい指先が触れる。
「錯覚なんかじゃない。僕は…本当に君のことが。だから、言ってくれ。どうしたらいい? どうしたら君に振り向いてもらえる?」
スッと、さく也は下がった。
「ユアンはユアンのままでいい。無理をすればきっと歪んでくる。そのままのユアンを愛し――」
「どうしても、僕ではダメなんだね?」
さく也の言葉を遮って、ユアンが立ちあがった。
見下ろされるのを嫌って、さく也はソファの方に動いた。その腕をユアンが掴む。振り払う間を与えず、そのまま腕を引いて、ソファに押し倒した。ユアンの長い足があたって、テーブルの上に置いたコーヒー・カップが床に落ちる。
さく也の真上に、ユアンの青い瞳があった。
「僕は…君を抱くよ」
「やめろ」
「サクヤがフィデリティを大切にしていることは知ってる。好きなヤツがいると、他の男とセックス出来ないくらいに。こうして僕に抱かれてしまえば、もう彼の元には戻れないだろう?」
ユアンの左手がさく也の両手首を、ユアンの長い足がさく也の足を押さえ込んだ。
「離せ」
彼の本気を感じ取って、さく也は体を捩った。しかし圧し掛かるユアンは、びくとも動かず、もうさく也の声も聞こうとしない。
キスから逃れるために動くさく也の顎を右手で掴み、唇を合わせた。噛み付くようなキスは、さく也の抵抗を封じる。それを確認すると、彼の右手はセーターの裾から、さく也の胸に滑り込んだ。
「ユアン!」
「抵抗しないで、サクヤ。ひどくしたくないんだ」
哀願する目でユアンが言った。次に落とされたキスは先ほどのそれとは違い、愛しむように優しいものだった。
育ちが良く、才能と人柄で手に入らないものはなかったユアンは、相手の合意なしでのセックスはしなかった。知り合ってから数え切れないほどさく也をくどきはしたが、むやみに体に触れることはなく、軽く肩を抱く程度で、それもさく也が嫌がる時にはすぐに外すほどだった。
その彼が、さく也を力ずくで抱こうとしている。これは、言葉足らずな自分のせいなのだろうか…と、さく也は思った。ユアンの事は嫌いじゃない。疎ましいほどの好意、だからと言って嫌いにはなれなかった。さく也は表現の仕方がわからないから、冷めて人嫌いな印象を与えているが、人恋しい部分は人並みに持っている。
ユアンの手が優しく触れる。ユアンの唇が甘く愛を囁く。自分の意思とは関係なく、さく也の体は熱を帯び、彼に応えてしまいそうに力が抜ける。
電話のベルが鳴った。反射的にさく也の体が動くのを、ユアンが押さえ込んだ。
ベルはしばらく鳴りつづけると、いつも通りに留守番電話に切り替わり、機械的な声でガイダンスが始まった。さく也の意思がそちらに移ったことを感じて、ユアンがまた唇を合わせてきた。歯列を割ろうとする彼の舌に、さく也の唇が緩んだ時、
“えっと…加納ですけど。用があったわけじゃないから、掛け直さなくていい。ただ、声が聞きたかっただけだから”
その声が流れた。精彩を失いかけたさく也の目は、途端に光を取り戻す。
――加納…!?
次には、渾身の力で、ユアンを押しのけていた。さく也の抵抗がなくなって加減していたユアンは、ソファの下に落とされた。
「サクヤ!?」
慌てて引き戻そうと彼は腕を伸ばしたが、さく也はそれをすり抜けた。体の熱りは一瞬にして引いた。
電話に駆け寄り、再生ボタンを押す。今、録音されたばかりのメッセージが、スピーカーから流れ出した。間違いなく、加納悦嗣だ。
さく也の声を聞きたかったと言ったのは、聞き違いではなかった。五ヶ月ぶりの悦嗣の声は、別の熱りをさく也の頬に産みだした。電話の脇のメモパッドには、初めて悦嗣に国際電話をかけるために書き留めた電話番号が、そのまま残っていた。プッシュ・ボタンを押す。ユアンの気配を背中に感じ、振り返って彼を見た。
「寄るなっ!!」
常にない声で一喝され、ユアンはその場に立ち竦んだ。全身で拒絶を示して、さく也は耳に響く呼び出し音に集中する。
むなしく鳴り続ける電話は、しばらくして悦嗣自身で吹き込まれたガイダンスが流れ、留守番電話に切り替わった。
あんなに聞きたいと思った悦嗣の声。かけたくてもかけられなかった電話が、彼の方からかかってきたと言うのに、どうして自分は取れなかったんだろう。
受話器を置いて、乱れた胸元を整えた。
「ユアン、今日のことは忘れる。だから帰ってくれ」
棒立ちのユアンに一瞥くれて、さく也は寝室に向った。
入り口近くに立てかけてあったヴァイオリン・ケースを引っ掴むと、パスポートやカードの類を楽器と一緒に放り込む。脱いだままイスに無雑作にかけられたコートを着込みながら、部屋の戸締りを手早く済ませた。
空調を切り、後はドアから外に出るだけになり、さく也がまだ立ち竦んだままのユアンに向って、彼のコートを放った。
「さっきの電話…」
ユアン搾り出すように言う。
「彼だな? 彼のところに行くのか?」
「だったら、どうなんだ? また無理やり俺を抱くのか?」
「サクヤッ」
さく也は時計を見る。もうすぐ4時だ。今から日本行きの便はあるだろうか? なくても構わない。とにかく空港に行きたかった。それだけで、悦嗣に近づく気がしたから。
「友達としてのユアンは失くしたくない。俺を行かせてくれ」
物問いたげな青い瞳に、さく也は続けた。
「彼じゃなきゃ、嫌なんだ」
作品名:Slow Luv Op.4 作家名:紙森けい