パラダイム・ロスト
翌朝二人は山へ向かって出発した。山までは広く、深い森を抜けて行かねばならない。食料も水も、何も持ってこなかったが、すべてはこの恵み多き森の中で調達できた。しかし旅をしながらの生活は決して以前より楽ではなかった。二人は協力し合って、その生をつないだ。
森を抜けるまでに三度の夜と朝とを数えた。森を抜けたとき、二人はすでに山にいた。森は山の中腹まで続いていたのだ。
それ以降の山の自然は森の中とはうってかわった荒涼としたものだった。最初の頃こそ低木や草はらの中に食べられる小さな果実を見つけられもしたが、標高を増すにしたがって岩と地衣類ばかりの風景に移ろいでいった。水もごくまれに湧いているくらいだった。食料を備蓄してこなかった二人は日を追うにしたがって疲弊してきた。疲労と空腹とで気が立っており、何でもないことでいがみ合うことが多くなった。男も女も、互いに幸せを感じなくなっていった。そんな二人の心はこの山の寒々しく淋しい景色にいかにもよく似ていた。
(何がいけなかったのだろう?)
男はどうしたらいいのかさっぱり分からなくなっていた。一人で生きていたときにはこのように狂おしい気持ちになることはなかった。それはどうにも逃れようのない苦しみで始終男の胸をしめつけ、みるみるうちに男の生の輝きを曇らせていった。
女は男と話すらしなくなった。いつだって不機嫌だったし、男の存在を気にすらとめていないように見えた。それでも男は女のためになけなしの水と、食べられる野草とを探し回り、そのすべてを女に与えた。しかしそれらは到底女に満足を与えるには及ばないものだった。
ある曇った肌寒い日、とうとう女は別れを切り出した。
「あぁ、もううんざりよ。こんな旅はうんざり。あなたといるのもうんざりしてきたわ。ここで別れましょう。」
男は疲れきっており、さらに空腹の極にあったので、女の言葉に動揺すら起こらなかった。静かな苛立ちとも、諦めともつかない居心地の悪い感情が心を支配していた。
「そうか。残念だけど、僕ももう疲れたよ。君は何をやっても喜んでくれないし、もう仲のよかった頃に戻れる気がしないんだ。ほんとうに君が好きだったのはたしかなんだけど、今は何がなんだかわからないよ。」
「そうね、私も何がなんだかわからないわ。わかってるのは、もう全部おしまいだってこと。じゃあね、さようなら。」
女は男に背を向けると、どこへ向かうとも知れず去って行った。
男は無気力にまかせてしばらく座りこんでいた。おりしも灰色の空からは雨粒が落ちてきた。男は雨に溶ける泥人形のように倒れ伏した。冷たい岩肌が頬に、胸に心地よかった。今はただ、無心に溶けていたかった。そのうち静かで深い、死のような眠りが男を襲った。
どのくらい眠っただろう。ゆるゆると流れて行く雲たちを、神々しいほどにまばゆい西日の光が射抜いている。
しばらくすると、遠くの山際は夢見るような紫紺に染まった。骨をなでるような寒気に襲われて男は目覚めた。そしてのろのろと半身を起こすと、遠くの夕焼けにしばし見入っていた。雨はすっかり上がり、風もなく、とても静かな世界だった。その静けさが男にはありがたかった。男は自分の目に何か熱いものがにじむのを感じた。男は生まれて初めて涙した。それは女を失った悲しみの涙なのか、荘厳なこの世界を目の当たりにした感動の涙なのか。男は初めての涙に戸惑い、しきりに目をぬぐった。
突然、猛禽のものだろうか、「ぎゃあっ」というするどい鳴き声が響いた。男ははじけるように立ち上がった。あたりを見回したが、鳴き声の主は見当たらない。日はすでに没し、あたりには不気味な宵闇が迫りつつあった。ふたたび「ぎゃあっ」と鳴き声が起こった。それを合図にしたかのように、男は転がるように山を駆け下りはじめた。方々で転び、岩に身を打ちつけ、裂傷と打撲にまみれた。全身から血を流し、それでも男は走り続けた。痛みも、疲れも、空腹も忘れていた。
我に返ったとき、男はかつて暮らしていたあの浜辺に立っていた。
三
男の暮らしは女が来る以前のものに戻った。しかし男の心はそのころとまったく違うものになっていた。いまや男は不安や苦しみは女がもたらしたものだと思っていた。だから女がいなくなったこれからは、自分はそれらの感情から解放されるだろうと考えた。しかしその解放はいつまでたってももたらされず、無気力で苦しいだけの日々がいたずらに過ぎていった。元の暮らしに戻るには、男は知りすぎてしまったのである。狩り、食べ、眠るだけの原始的で動物的な生に戻るには、男は「人間的」になりすぎていた。
「女は今ごろどうしているだろう。生きていることが、なぜこうも苦しいのだろう。」
日々のいかなる時点を見ても、男の心にはこうした答えを知る由も無い疑問が絶えず起こっていた。
かつて男は海ばかりを眺めており、山など気にもとめていなかった。それが今では山を眺めることが多くなっていた。そこにはもちろん女に対する思慕の念もあるのだろう。しかし、山には何かそれ以上に男を惹きつける力が感じられた。いつしか男はこの山を越えることが自分の苦しみに救いをもたらしてくれるのではないかと考えるようになった。それはあながち間違いではなかったかもしれない。だが確たる保証はまったくなかった。山がなぜ男を誘うのかもわからなかったし、よし山を越えたところで、そこに何が待っているのかもわからなかった。それでも男の山へ向かう衝動は日増しに強くなってった。
ある日男は山へ向かう決心を固めた。いつかのように肌寒い、雨の降り注ぐ陰鬱な天気だった。だが男の歩みに迷いはなかった。いつかは女と二人でたどった山への道を、男は一人歩み始めた。
男は山を登る。もはや彼には登ることしかできないのだ。私も同じ山を登る者として、彼に一抹の同情を禁じえない。しかし彼を哀れむには及ばない。この山を登りゆく者は大勢いる。登っていることに気づいていない者もいるだろう。しかし私は多くの登山者たちを、巡礼者たちを知っている。山の向こうには何が待つのだろう。我らの目指すものはなんであろう。いつだって我々は疑問符に囚われた登山者なのだ。あの美しい浜辺に戻るには、もうあまりに遠くまできてしまっているから。