My Godness~俺の女神~Ⅳ
夕方になった。
会社が退けてから、実里は大木ひかるを駅前の喫茶店に誘った。
例の溝口悠理の友達だというホスト片岡柊路とここで逢ったのは、もう二ヶ月も前になる。あれ以来、柊路からは二、三度、連絡があった。その度に短いやりとりを交わした中からは、彼が実里のことを真剣に心配してくれているのが判った。
しかし、実里の方から柊路に電話することもなく、その中に彼からの連絡は途絶えた。
あの時、彼は言ったはずだ。悠理は普通の状態ではない。気をつけろと。
実里がもっと彼の警告を真摯に受け止めていたなら、あの夜のレイプは避けられたかもしれない。もう一度、あの優しい眼をした穏やかな青年に逢ってみたいと思わないでもなかったけれど、悠理の友達だというただそれだけの関係の彼に、実里の方から連絡するのも躊躇われた。
実里は、ひかるに人事部長とのやりとりをほぼ全部話した。
「そんな―。それはあんまりというものじゃない。新規プロジェクトのことだってそうだけど、たったそれだけのことで、実里を切り捨てるなんて割に合わないわ。絶対におかしいわよ」
話を聞いたひかるはまるで我が事のように憤慨した。
「仕方ないわよ。ムシさんだって、できるだけのことをしてくれたんだし」
かえって渦中の本人の方がひかるを宥めている。
と、ひかるが急に憂い顔になった。
「ねえ、一つだけ訊いても良い?」
「なあに?」
「実里のお腹の赤ちゃんの父親は誰なの?」
実里は硬直した。
ひかるが慌てて取りなすように言った。
「話したくないのなら、無理に訊こうとは思わないわ。でもね、今だから話すけれど、一昨日、実里が給湯室で吐きそうになった時、私は実里が妊娠しているんじゃないかと思ったの。私には姉がいるでしょ。その姉が結婚して初めて妊娠したときに悪阻が物凄くて、実家に一時戻ってきて、静養したくらいなのよ。実里の様子がそのときの姉とそっくりだったから、もしかしたらと思ったの」
「それで、生理のことを訊いたのね。私ってば、女失格だわ。ひかるが私に訊ねてきたときに、何でそんなことをいきなり訊ねるんだろう、幾ら親しくても嫌だなって思っちゃったの」
実里が正直に打ち明けると、ひかるは笑った。
「それが実里の実里らしいところだもんね」
「なに、それ。褒められてるような気がしないんだけど」
二人は顔を見合わせて笑った。
この優しくて明るい親友とも、これで離れ離れになる。会社を辞めることは確かに実里にとって一つの大きな節目になるに違いなかった。
「でも、実里。あの日も言ってたけど、彼氏とは何でもないんでしょう。なら、赤ちゃんの父親はそれ以外の男ってこと?」
実里の顔が真っ青になったのを見て、ひかるは首を振った。
「ごめん、もう訊かない方が良いのよね」
「私の方こそ、ごめんなさい。ひかるには本当に仲良くして貰ったのに、何も話せなくて」
実里は心からひかるに申し訳なく思った。
ひかるは破顔した。
「なに水くさいことを言ってるのよ。それよりも、私から総務の部長に言ってあげようか? 総務の部長は社長の甥っ子だから、うちの部長から取りなして貰えれば、頑固爺ィの社長の考えも変わるかもしれないわ」
実里は微笑んだ。
「ありがと。ひかるがそこまで私のことを考えてくれて、本当に嬉しい。でも、やっぱり止めておく。仮に総務部長から取りなして貰って会社にいられることになったとしても、他人の眼というものがあるしね。きっと、今まで以上に居づらいと思うのよ。そういう針の筵のような場所にいるのも、お腹の子どもには良くないだろうから、この際、思い切って辞めることにする」
「実里、何だか強くなったわね。ついこの間までの実里と別人みたい。やっぱり、母は強しっていうのは本当なのかなぁ」
ひかるは感心したように言い、突如として唸った。
「それにしても、許せないわ」
「何が?」
本当に何のことか判らなくて問うと、ひかるは焦れったそうに言った。
「もう! 実里は本当にお人好しすぎるわよ。庶務課のあの子たち。病院で実里に逢ったっていう後輩たちのことに決まってるじゃないの。大方、あの子たちが実里のことを人事部に通報したに違いないわ」
実里自身も間違いないと思っていた。第一、あの二人に出逢ったその日、人事部に通報が入ったのだ。偶然の一致にしてはできすぎている。
「もう済んだことよ。今更、言ってみても始まらないわ」
「ああ、あなたは本当に人が好すぎるわ」
ひかるが嘆息混じりに呟いた。
「良いわ、私が実里の代わりに、あの子たちに制裁を加えるやるから。憶えてなさい。私の大切な親友に酷いことをしたら、ただじゃおかないんだから」
「せいぜいお手柔らかにね」
実里の冗談とも本気ともつかぬ言葉に、ひかるは笑った。
「あなた、眼が笑ってないわよ?」
ひかるの指摘に、〝そう?〟と、しれっと笑顔で応えた。
「それで、会社止辞めて、次の仕事の心当たりはあるの?」
「全然。しばらくは家にいるわ。といっても、そうそう、のんびりともしていられないけどね。お腹が大きくなってきたら、できる仕事も限られてるでしょうし。今の中にバイトでもして、しっかりと稼いでおかないと」
冗談めかして言ったのに、かえって、ひかるは涙ぐんで黙り込んでしまった。
確かに、ひかるの言うとおりだと思う。自分で言うのもおかしいけれど、実里は相当なお人好しだ。自分を陵辱したあの男―溝口悠理ですら、今はもう憎しみをあまり感じなくなっている。
もちろん今も顔だって見たくないほど大嫌いな男に違いはないが、事件直後のように殺してやりたいと思うくらいの憎しみは薄れていた。
あの男を憎んでも意味がない。それは恐らく、あの事故の起きた日、実里が早妃を轢いてしまったことにも言えるだろう。誰を恨んでも憎んでも、何も始まらないし、生まれない。
実里はもう事故のことで自分を責めるのは止めた。ただ自分が生命を奪ってしまったひとりの女性の存在だけは永遠に心にとどめ、罪は背負っていこうと思っている。
そうやって自らの罪と向き合うことでしか、実里には償うすべはない。せめて忘れないことが、あの女への贖罪なのだ。
早妃のことは憶えておいて、あの男―悠理の存在はさっさと記憶から消してしまおうと思う。あの忌まわしい汚辱の夜も。
自分にはこの子さえいてくれれば良い。
私だけの子、可愛い私の赤ちゃん。
この子には最初から父親はいない。私をレイプした男があなたのお父さんよだなんて、絶対に言えるはずがない。この秘密は私がこの生命尽きて墓場に行くまで、ずっと秘めて、あの世にまで持っていく。
実里は無意識の中にお腹を押さえていた。
六月最後の日、実里は短大を出て七年間勤めた会社を辞めた。ひかるは大泣きに泣いた。
「やあね。別に永の別れでもあるまいし。逢おうと思えば、いつでも逢えるじゃない」
実里が縋りついてくるひかるを抱きしめると、ひかるは更に声を上げて泣いた。
「元気でね。赤ちゃんが生まれたら、抱っこしにいくからね」
こうして、実里は想い出多い出版社を後にした。
♯Conflict(葛藤)♯
会社が退けてから、実里は大木ひかるを駅前の喫茶店に誘った。
例の溝口悠理の友達だというホスト片岡柊路とここで逢ったのは、もう二ヶ月も前になる。あれ以来、柊路からは二、三度、連絡があった。その度に短いやりとりを交わした中からは、彼が実里のことを真剣に心配してくれているのが判った。
しかし、実里の方から柊路に電話することもなく、その中に彼からの連絡は途絶えた。
あの時、彼は言ったはずだ。悠理は普通の状態ではない。気をつけろと。
実里がもっと彼の警告を真摯に受け止めていたなら、あの夜のレイプは避けられたかもしれない。もう一度、あの優しい眼をした穏やかな青年に逢ってみたいと思わないでもなかったけれど、悠理の友達だというただそれだけの関係の彼に、実里の方から連絡するのも躊躇われた。
実里は、ひかるに人事部長とのやりとりをほぼ全部話した。
「そんな―。それはあんまりというものじゃない。新規プロジェクトのことだってそうだけど、たったそれだけのことで、実里を切り捨てるなんて割に合わないわ。絶対におかしいわよ」
話を聞いたひかるはまるで我が事のように憤慨した。
「仕方ないわよ。ムシさんだって、できるだけのことをしてくれたんだし」
かえって渦中の本人の方がひかるを宥めている。
と、ひかるが急に憂い顔になった。
「ねえ、一つだけ訊いても良い?」
「なあに?」
「実里のお腹の赤ちゃんの父親は誰なの?」
実里は硬直した。
ひかるが慌てて取りなすように言った。
「話したくないのなら、無理に訊こうとは思わないわ。でもね、今だから話すけれど、一昨日、実里が給湯室で吐きそうになった時、私は実里が妊娠しているんじゃないかと思ったの。私には姉がいるでしょ。その姉が結婚して初めて妊娠したときに悪阻が物凄くて、実家に一時戻ってきて、静養したくらいなのよ。実里の様子がそのときの姉とそっくりだったから、もしかしたらと思ったの」
「それで、生理のことを訊いたのね。私ってば、女失格だわ。ひかるが私に訊ねてきたときに、何でそんなことをいきなり訊ねるんだろう、幾ら親しくても嫌だなって思っちゃったの」
実里が正直に打ち明けると、ひかるは笑った。
「それが実里の実里らしいところだもんね」
「なに、それ。褒められてるような気がしないんだけど」
二人は顔を見合わせて笑った。
この優しくて明るい親友とも、これで離れ離れになる。会社を辞めることは確かに実里にとって一つの大きな節目になるに違いなかった。
「でも、実里。あの日も言ってたけど、彼氏とは何でもないんでしょう。なら、赤ちゃんの父親はそれ以外の男ってこと?」
実里の顔が真っ青になったのを見て、ひかるは首を振った。
「ごめん、もう訊かない方が良いのよね」
「私の方こそ、ごめんなさい。ひかるには本当に仲良くして貰ったのに、何も話せなくて」
実里は心からひかるに申し訳なく思った。
ひかるは破顔した。
「なに水くさいことを言ってるのよ。それよりも、私から総務の部長に言ってあげようか? 総務の部長は社長の甥っ子だから、うちの部長から取りなして貰えれば、頑固爺ィの社長の考えも変わるかもしれないわ」
実里は微笑んだ。
「ありがと。ひかるがそこまで私のことを考えてくれて、本当に嬉しい。でも、やっぱり止めておく。仮に総務部長から取りなして貰って会社にいられることになったとしても、他人の眼というものがあるしね。きっと、今まで以上に居づらいと思うのよ。そういう針の筵のような場所にいるのも、お腹の子どもには良くないだろうから、この際、思い切って辞めることにする」
「実里、何だか強くなったわね。ついこの間までの実里と別人みたい。やっぱり、母は強しっていうのは本当なのかなぁ」
ひかるは感心したように言い、突如として唸った。
「それにしても、許せないわ」
「何が?」
本当に何のことか判らなくて問うと、ひかるは焦れったそうに言った。
「もう! 実里は本当にお人好しすぎるわよ。庶務課のあの子たち。病院で実里に逢ったっていう後輩たちのことに決まってるじゃないの。大方、あの子たちが実里のことを人事部に通報したに違いないわ」
実里自身も間違いないと思っていた。第一、あの二人に出逢ったその日、人事部に通報が入ったのだ。偶然の一致にしてはできすぎている。
「もう済んだことよ。今更、言ってみても始まらないわ」
「ああ、あなたは本当に人が好すぎるわ」
ひかるが嘆息混じりに呟いた。
「良いわ、私が実里の代わりに、あの子たちに制裁を加えるやるから。憶えてなさい。私の大切な親友に酷いことをしたら、ただじゃおかないんだから」
「せいぜいお手柔らかにね」
実里の冗談とも本気ともつかぬ言葉に、ひかるは笑った。
「あなた、眼が笑ってないわよ?」
ひかるの指摘に、〝そう?〟と、しれっと笑顔で応えた。
「それで、会社止辞めて、次の仕事の心当たりはあるの?」
「全然。しばらくは家にいるわ。といっても、そうそう、のんびりともしていられないけどね。お腹が大きくなってきたら、できる仕事も限られてるでしょうし。今の中にバイトでもして、しっかりと稼いでおかないと」
冗談めかして言ったのに、かえって、ひかるは涙ぐんで黙り込んでしまった。
確かに、ひかるの言うとおりだと思う。自分で言うのもおかしいけれど、実里は相当なお人好しだ。自分を陵辱したあの男―溝口悠理ですら、今はもう憎しみをあまり感じなくなっている。
もちろん今も顔だって見たくないほど大嫌いな男に違いはないが、事件直後のように殺してやりたいと思うくらいの憎しみは薄れていた。
あの男を憎んでも意味がない。それは恐らく、あの事故の起きた日、実里が早妃を轢いてしまったことにも言えるだろう。誰を恨んでも憎んでも、何も始まらないし、生まれない。
実里はもう事故のことで自分を責めるのは止めた。ただ自分が生命を奪ってしまったひとりの女性の存在だけは永遠に心にとどめ、罪は背負っていこうと思っている。
そうやって自らの罪と向き合うことでしか、実里には償うすべはない。せめて忘れないことが、あの女への贖罪なのだ。
早妃のことは憶えておいて、あの男―悠理の存在はさっさと記憶から消してしまおうと思う。あの忌まわしい汚辱の夜も。
自分にはこの子さえいてくれれば良い。
私だけの子、可愛い私の赤ちゃん。
この子には最初から父親はいない。私をレイプした男があなたのお父さんよだなんて、絶対に言えるはずがない。この秘密は私がこの生命尽きて墓場に行くまで、ずっと秘めて、あの世にまで持っていく。
実里は無意識の中にお腹を押さえていた。
六月最後の日、実里は短大を出て七年間勤めた会社を辞めた。ひかるは大泣きに泣いた。
「やあね。別に永の別れでもあるまいし。逢おうと思えば、いつでも逢えるじゃない」
実里が縋りついてくるひかるを抱きしめると、ひかるは更に声を上げて泣いた。
「元気でね。赤ちゃんが生まれたら、抱っこしにいくからね」
こうして、実里は想い出多い出版社を後にした。
♯Conflict(葛藤)♯
作品名:My Godness~俺の女神~Ⅳ 作家名:東 めぐみ