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My Godness~俺の女神~ Ⅱ

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 どこをどのようにして帰ったのか判らない。実里が両親と暮らす自宅は会社から歩いてもせいぜい二十分程度である。あの不幸な事故のあった住宅街からほど近い一角に暮らしているのだ。気がついたときには、自分の家に辿り着いていて、二階まで駆け上がり自室のベッドに身を投げ出していた。
 両親が留守をしていたのは幸いだった。実里の父は町役場に勤める謹厳実直な公務員であり、母親は駅前のスーパーへレジ打ちのバイトに行っている。
 二人ともに実里が起こした事故については、極力触れない。あの日以来、まるで腫れ物に触れるように実里を扱っていた。父も母も衝撃を受けているのは明らかだが、娘が不起訴処分になったことでもあり、これ以上、嫌な事には触れたくないという気持ちがありありと窺えた。
 少なくとも、この小さな家の中では表面だけは淡々とした以前と同じ時間が流れているかに見えた。それは社内でも同様だ。
 あの事故はこの町では圧倒的購読数を誇る地方紙の二面に出た。スペースはさほど大きくはないが、眼を通した人は少なくなかったはずである。翌日から熱を出して会社も休まざるを得なかったが、何人かの知り合いには
―大丈夫? 大変だったわね。それで、どうなったの、その後は。
 と、慰めとも単なる野次馬根性とも取れないような科白をよこされた。
 他の人も口には出さなくても、腹の中は皆似たようなものだろう。どの人もあの日のことを知っている癖に、敢えて触れようとしない。その癖、態度には微妙にその影響が出ていて、実里はやりきれなかった。
 泣きながら、実里はいつしか眠りに落ちていた。
 哀しい夢を見た。
 どこからか赤ん坊の泣き声が聞こえてきて、実里は赤児を探し回っているのに、見つからない。実里の回りには一面ミルク色の靄が立ちこめていて、実里は際限なく赤児を探し続けなければならなかった。
 夢の中を漂いながら、実里は泣いていた。
―赤ちゃん、私の赤ちゃんはどこなの?
 実里の中に、あの儚く亡くなった女性―溝口早妃の浮かばれない魂が入り込んでしまったのだろうか。
 実里は紛れもない我が子を探すように、涙を零し、いなくなった赤ん坊を探していた。
 
 闇の中からメロディが流れている。
 実里はハッと目覚め、ベッドの上に身を起こした。茫洋としていた意識が次第に鮮明になるにつれて、今日の出来事が次々に脳裏に甦った。
 会社から出てきてほどなく、どこからともなく溝口悠理が現れ、横断歩道を渡りかけていた実里を引きずり戻した。会社前で〝人殺し〟と実里を通行人の前に引き据えて声高に触れ歩いたこと。
 思い出すだけで、恥ずかしさと屈辱に涙が出そうになる。しかし、己れのしたことを思えば、致し方ない報いなのだろう。そう思うしかなかった。
 音楽が鳴っているのは、枕元のナイトテーブルに置いてあった携帯からだ。実里は手を伸ばして携帯を取り上げた。
 二つ折りの携帯を開き、耳を当てる。
―もしもし、入倉さんのお電話で大丈夫ですか?
 若い男の声だ。瞬時に悠理の顔が浮かび、実里は全身に警戒を漲らせた。
―はい、入倉ですけど。
 自らを落ち着かせるように深呼吸してから、続けた。
―どちらさまでしょうか?
―俺、いや、僕は片岡柊路といいます。
―片岡さん?
 聞いたことのない名前である。だが、少しだけ安心もしていた。この声は、数回聞いただけの悠理のものとは違う。凍てついた氷のような声ではなく、もっと温かみのある人間らしい声だ。
―はい。その―、何と言ったら良いのかな。溝口悠理の友人です。
 やはり、と、実里の中で再び疑念と警戒が兆した。悠理本人からでなくとも、彼に拘わりのある人物からの電話なんて、できればご免蒙りたい。
―それで、私に何かご用でしょうか?
 用心しながら問うと、片岡柊路と名乗る男は控えめに言った。
―お逢いして、お話ししたいことがあるんです。明日の夕方、少しの時間で良いから、逢えませんか?
 実里は躊躇った。あの男の友達だなんて、二人きりで逢わない方が良いに決まっている。その時、実里の中で閃くものがあった。
―もしかして、片岡さんって、あの日、病院へ溝口さんと一緒に来られていた?
―ええ、そうです。
 相手の声が少し活気を帯びた。
 あの男は悪い人ではない。ともすれば感情のままに実里に衝突しようとする悠理を宥め、実里を庇いさえしてくれた。
―判りました。時間と場所を教えてください。
 短いやりとりの後、柊路はすぐに電話を切った。
 
 翌日の夕刻、実里は柊路の指定した喫茶店にいた。そこは会社からも近いF駅前の小さな店である。
 二人きりではなく、人眼の多い駅前の喫茶店を選んだのも柊路の思慮深さを物語っている。
「済みません、急に呼び出したりして」
 実里が曇りガラスの扉を開けた時、柊路は既に奥まったテーブル席で手を振っていた。「いいえ、お気になさらないでください。ですが、何故、急に?」
 柊路はここまで来ても躊躇うことがあるのか、逡巡する様子を見せた。それから覚悟を決めたようにひと息に言う。
「最近、何か身の回りで変わったことはありませんか?」
「変わった―こと、ですか」
 やはり真っ先に浮かんだのは、昨日の出来事だ。しかし、そのことを当の悠理の親友であるこの男に打ち明けても良いものかどうか、即断はできかねた。
 実里の表情に何か感じるものがあったのだろう、柊路はわずかに身を乗り出してきた。
「心当たりがあれば、何なりと言ってください」
 それでもまだ言うだけの勇気はない。
 柊路が溜息をついた。
「あるんですね? 気になることが」
 実里は口を開きかけ、また黙り込む。
「もしかして、悩んでいるのは悠理のことですか?」
 沈黙が何よりの肯定となる場合もある。柊は、やれやれといった表情で首を振った。
「多分、そんなことになってるんじゃないかと思っていました」
 刹那、実里はバネ仕掛けの人形のように顔を上げた。
「何で判るんですか?」
 柊路が笑っている。
「まあ、あいつ―悠理とはもう長い付き合いですからね。あいつの考えてること、やりそうなことくらいは判ります」
 柊路はいきなり押し黙り、実里を見つめた。
 気まずい沈黙が漂う中、それを破ったのも柊路の方だった。
「こんな言い方は誤解させてしまうかもしれませんが、悠理は今、まともな状態ではありません。奥さんを失って、常識的な判断というものが全くできなくなってる」
「私のせいですね」
 うなだれると、柊路は力強い声で否定した。
「僕は違うと思う。悠理には僕が他人だから、そんな冷たいことを言えるのだと言われましたけどね。確かに、それもあるかもしれない。もし僕が悠理の立場だったら、今のように公平に物事を見られるかどうか? 自信はありません。ただ、今の僕は客観的に考えられる立場にあるので、言わせて貰いますが、あなたは悪くはないでしょう。それは警察の調べでも十分すぎるほど証明されたはずだ」
 柊路はそこで既に運ばれていたコーヒーに口をつけた。とっくに生温くなっているはずだが、砂糖もミルクも入れずに飲んでいる。