鷹
その鷹は高く、高く昇っていった。天球は果てしない群青に染まっている。純白の入道雲が初夏の緑の萌える山々の上にそびえている。鷹はこの美しい活力に満ちた天地すら目に入らない。ただ一羽無間の空を昇っていく。鷹のくちばしは固く閉じられている。このくちばしを最後に獲物の血肉が潤したのはいつのことだったろうか。かつての高らかな鳴き声も今は失われていた。さらには両足の爪も幾本か折れている。これまで数多くの獲物の背を引き裂いてきたこの研ぎ澄まされた黒い凶器は、今は砕けた黒曜石のようなありさまをさらしている。
二
数刻前、鷹は今にも墜落せんばかりの空腹を抱えて飛んでいた。もう随分長い間獲物にありつけていなかった。
(むしろこのまま地面へと我が身を叩きつけてしまおうか。)
いつもなら心地よいほどの初夏の日差しすらその身を焼くように熱く感じられた。すべてがもの憂く、苦痛であった。
と、うつろであった鷹の目に突如鋭いひらめきがはしった。眼下の平原に、一点の灰色を認めたのである。
(兎だ。)
鷹の鼓動はにわかに高まった。それでいて意識は氷のように鎮まっていた。この狩りの失敗は即ち死を意味している。鷹はこれから兎を狩るのではない。己の命を獲りに行くのである。
(恐れるな。いつもどおりだ。)
鷹は猛然と急降下した。風を切る速さの中、その眼は兎の急所をゆるぎなく見据えていた。数瞬の後、爪は兎の柔らかな背に深々と突き立った―――はずであった。瞬間、鷹の足に激痛がはしった。辛うじて地に墜ちるを免れた鷹は獲物の方を顧みた。兎とばかり思っていたそれは、丸い形をした一塊の岩であった。岩のそばには今しがた折れ飛んだ鷹の爪が落ちている。この瞬間、鷹は爪とともにその誇りも失った。
(俺は自分の命を石くれなんぞに賭したのか。)
失意も絶望もなかった。なぜだか無闇に可笑しかった。鷹はこわばったくちばしをわずかに歪め、己の愚を笑った。もうこのくちばしは己を笑う為にしか開き得ぬであろう。笑いをたたえたまま、鷹はひとつ大きく羽ばたいた。そして高く、高く初夏の青空へと昇っていった。
三
その後、鷹はどうなったのであろう。ある語り部は「あの鷹は、はるかな高みから大地を目がけて墜ちていった。」と語った。またある者は「太陽に身を投じて焼け死んだ。」と語り、またある者は「星になった。」と語った。しかし本当の結末は誰も知らない。いずれにしろ、あの鷹はいなくなった。だが鷹はたしかに存在していたのである。生命の息吹に満ちた初夏の平原の一角で、彼の美しい爪の破片は静かに、だが力強く日に輝いている。