婚約解消
ほんのちょっとしたきっかけで人生は変わる。村田タカシの場合もそうだ。本来なら、彼はエリートコースの人生を歩むはずだった。しかし・・・
村田タカシは某国立大をトップクラスで卒業し、日本有数のソフトウェアの会社に勤めた。三十一の彼はもうじき課長になるはずだった。さらに半年後の秋には、親が決めた女と結婚する運命にあった。何もかもが順調にいくはずたった。ところが、部下のYが突然辞めることによって事態が一変する。Yが担当していたプロジェクトが少しもうまくいっておらず、暗礁に乗り上げていたことが発覚したのである。Yはそのことをずっと隠してきたが、それがどうにもならないと分かったとき、あっさりと辞表を出したのである。急遽担当部長は火消し役を村田に命じた。すぐさま、プロジェクトリーダとして、客先に乗り込んだ。絶望的な状況であることはすぐに分かった。それでも彼は必至に対処した。客側の担当と相談した結果、稼働を有線させるということになった。どうにか稼働させたものの想定したとおりトラブルが多発した。まともとトラブル続発に、客は手のひらを返したように怒りが爆発させた。契約相手は社長に直談判する。そして、社長命により、村田は客先に張り付くはめになった。トラブルに終われる日々が続いた。 ユーザへの言い訳、説明。そして、電話で一時間もかかる上司に対する状況報告。タコ部屋でのミーテング。いつもホテルに帰って眠るのは午前二時過ぎであった。そして朝八時前にはホテルを出て、ユーザ先に向かう。本稼働日から一ヵ月が経過して、やっとどうにかトラブルが収まった。が、顧客から多くのペナルティを課せられた。それを上司に報告すると、皆のいる前で、上司は罵倒した。
「村田、お前、会社に入って何年だ。伝書鳩じゃあるまいし、客の言い分をそのまま伝えてどうする。うちが全部悪いのか? 向こうの過失もあるだろ? それなのに、賠償金を払え? いったい、誰が払うんだ? お前の給料じゃ、とても払えんぞ!、」
窮地に立たされたときに真の姿があらわれる。上司はいつも笑顔で、品も良さそうにみえるが、それはただ単なるポーズに過ぎないことが、罵倒によってあきらかになった。そして、最後に机を叩き「馬鹿か! 何で相手の言いなりになるんだ! お前なんか会社を辞めちまえ!」と罵った。この言葉がタカシのプライドを壊した。
タカシが会社に出なくなったのは、それから一週間後のことである。さらに一ヵ月後には辞表が会社に届いた。
タカシはいろいろと考えた。
一流大学に入り、現代科学の最先端のテクノロジーを優秀な成績で習得した。その気になれば、どんな会社に入れ、確実に会社経営の一翼を担える自信があった。それなのに、どうして、「馬鹿!」と言われなきゃいけないのかと。今まで仕事に命をかけていた自分が馬鹿らしく思えてきた。悩んでいるとき、ある人の言葉がよみがえった。
「南の島はいいよ。果てしなく続く青い世界がある。そこで静かに暮らすのが一番だ。地上の楽園だな」という言葉が。
南の島に行きたいという欲望を抑えきれなくなったとき、彼は辞表を書いた。そして、婚約者にも、“自分を忘れるように”と手紙を書いた。
数日後、タカシは原色が支配する南の島にいた。憧れていた世界だ。時計の針で支配される空虚な時間はどこにもなく、確固とした陽だけが昼と夜を区切る。四方がコバルトブルーの海、果てし無く続く水平線。気まぐれに変わる天候。突然のスコール、何もかもタカシを魅了した。
彼は片言の英語で現地人に溶け込んだ。中国系の娘にも出会った。彼女は実に陽気で、まるで純粋無垢の天使のようだった。そのうえ一寸の無駄もない魅力的な肢体をしていた。目と口元が実に愛らしく、ときに子猫のようかわいかった。その愛くるしさに彼はすぐに魅了された。
ある日、中国系の娘は聞いた。
「何しに来たの?」
彼は「地上の楽園を探しに来た」
「日本に無いの?」
「あるのは地獄だな」
すると彼女は「ここは、地上の最後の楽園よ」と微笑んだ。いつしか彼女の部屋に住むようになった。
二人でベッドに寝そべっていた。
突然雨が降ってきた。激しい雨だ。椰子林もビルもみな雨に消えている。
娘は言った。「雨が降ると、皆、部屋の中でセックスするの」と微笑みながら囁いた。
「だから、みんな子沢山よ」
一週間もすると、タカシは自分に婚約していたことを忘れていた。一方婚約者の多香子は、タカシが消えた後、どうしょうか迷った末、彼の両親から南の島にいること聞き、訪ねることした。
多香子は日本から飛行機の中て色々と考えた。どんなふうに考えても悲劇的なタカシの姿しか思い浮かばなかった。何とか力になってあげたい。少なくとも、若くて優秀な彼には、まだ薔薇色の未来があると信じて疑わなかった。彼女の両親は、『いくじのない男のことは忘れろ!』と言った。けれど、タカシの実家は故郷に広大な土地を所有する資産家だ。その資産は十億を下らない。簡単に諦めるわけにはいかない。それに彼は真面目なタイプだ。これ以上の結婚相手はそうざらにない。ここでうまく彼の心を引き止められたなら、一生、楽に暮らせる。そのためには、女神のような優しく包み込みこめばよい。彼女のラブストーリーは何度も書き直された。そんな彼女に、翼の下に広がるコバルトブルーの世界は眼に映るはずもなかった‥‥。
多香子はタカシを空港に呼び出した。想像していたタカシとはまるで違っていた。日焼けして、髭を生やし、サングラスをかけ、楽しそうな顔していた。それは彼女の思い描いていたストリーとは正反対の展開だった。そのうえ彼は「自分は既に島の娘と同棲している」と淡々と言った。どうも恥じている様子は少しもない。
最後にタカシが「手紙が届いていなかったか? 悪いが、もう結婚する気はない」と言い終えたとき、彼女の顔はゆでタコのように真っ赤になっていた。爆発するのを必死に抑えていたのかタカシにも分かった。泣くものか! と彼女は心の中に何度も呟いた。それ以上にプライドが許さなかった。けれど、黙って立ち去るわけにはいかなかった。
突然、多香子の手が彼の頬を激しく打った。同時に、「馬鹿! お前なんか死んでしまえ!」と罵った。
タカシは冷静だった。
「ありがとう、これで終わったね。結婚はなしだ。君が僕よりも実家の資産に魅力を感じていたことはずっと前から知っていた。だから好きになれなかった。もともと婚約すべきじゃなかった」と彼は微笑んだ。