仮面の女
その刑事定年間近だった。できれば、何事もなく平凡に警察人生を終えたかった。犯罪者を追い詰めるには彼は優しすぎた。同僚には言えなかったが、ずっと刑事には向いていないと思っていた。
彼の所轄の山から、ニ体の白骨体が発見された。一体は撲殺されたような跡があった。最初はどこか流れてきた者ではないかといろいろと家出人をあたったが、それらしい人間が見当たらなかった。が、刑事はふと十五年前の失踪事件のことを思い出した。失踪したのはタカハシ・ヨウイチという男である。当時ヨウイチは女とともに失踪したということで片づけられた。
調べていくと、ヨウイチの歯の記録と一体の遺骨が符合した。
刑事はタカハシ・ヨウイチ夫人であるヨシコに所に行き、ヨシコに向かって、「夫の遺体らしきものが見つかりました。それも撲殺されたような跡もあります。失踪したのでは殺されたと考えています。まさかあなたが殺したわけではありませんよね」と話をした。
彼女は軽く笑って否定し、「自分は何もしていない」とも言い張った。
死体のあった近くを掘り返すと、彼女の犯行をほのめかすような証拠が出た。それを突きつけられても、彼女は頑な罪を認めなかった。
刑事はヨシコのことを詳しく調べた。
彼女は五歳のとき、孤児になって以来、ずっと一人ぼっちであった。二十二歳で夫に知り合い結婚した。夫は善良な男であったが、女癖が悪くしょっちゅうあちこちで女をつくった。それでも、ヨシコは何ら文句も言わなかった。
ある日、夫は一人の女とともに失踪する。こともあろうに妻の友人と。周りは失踪した二人をひどく言ったが、彼女は沈黙したままだった。
夫の失踪後も、夫の老母と二人、慎ましく暮らした。
「すまないねえ、ヨシコさん」と言うのが老母の口癖であった。
そんな老母に対し、彼女は「気にしないで、お母様」といたわった。
周囲には離婚を勧める者もいたが、彼女は離婚もせず老婆の面倒を見続けた。そして、十年の歳月が過ぎたのである。
取り調べを受けているとき、老母は倒れ病院に入った。余命幾ばくもないと診断された。その一カ月後に死んだ。
ヨシコは胸のつかえが取れたかのように刑事に告白した。
「私の人生は冬でした。ずっと冬、長くて辛い日々でした。それがやっと愛する者ができたのです。彼は優しくて、とても良い人でした」
「では、なぜ殺した?」
「殺したくて殺したのではありません」とヨシコは意外にも淡々と話す。
彼女の話によれば、結婚して十年が過ぎたときのことである。ちょうど冬の昼、その日は激しい吹雪。突然、行くところに困っていた、昔なじみの友人であるヨウコが思いボストンバックを持って訪ねてきた。泣きながら「行くところがないから泊めて」と手をついて頼んだ。その姿があまりにも憐れで泊めた。そこから不幸は始まったという。夫はこともあろうにヨウコに強引に関係を結び、そのうえ妊娠させてしまったのである。子供が欲しかった夫は欣喜雀躍し、妻であるヨシコを追い出そうとしたのである。それもヨウコまで一緒になって。
「ずっとヨウコとは親友でした。それなのに、夫の子を産むと言った。そのとき、殺したいほど憎しみを感じました」
「夫まで殺す気はなかったけど、つい首を絞めて殺しました。
「死体を見た夫が、前は鬼だ、と騒いだので、やむなく殺してしまいました」
刑事は驚いてヨシコを見た。
取り乱す様子もなかった。まるで他人事のように、
「そうです。私が二人を殺したのです」と淡々と言った。
刑事の視線の先には仮面のように何も変わらぬヨシコの顔をあった。
「もう一つ、聞く。夫の母親は病死だが、毒をもって殺したわけではないだろうな」
「どうして、そんなことを聞くんですか?」
「お前を見ていたら、そんな気がしてきた」
ヨシコは微かに笑った。いや、刑事は少なくとも、そう見えた。悪戯っぽく、仮面を外し、素顔を見せた。そんなふうにも思った。しかし、すぐに何もなかったような、すました顔をして、「そんなことをして何の得があるんですか?」と呟いた。