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我的愛人  ~顕㺭和婉容~

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第五章



「甘粕の名で部屋が取ってあるはずだが」
 フロントでそう告げると貴賓室の鍵を渡された。すべて秘密裏に甘粕が手配したらしく、「最上階は封鎖されております。利用客はございません」と、フロントマンが小声で耳打ちした。
 早急に婉容を落ち着かせねばならない、璧輝はフロントマンの案内を断るとホテル内の人ごみをかき分け婉容の手を固く握ってエレベーターに乗り込んだ。

「あの人……どうなったのかしら? 私、人を撃ってしまったのだわ……殺してしまったのだわ……」
 俯いてじっとエレベーターの床を見つめたままぶつぶつと呟き続ける婉容。
「あの者は皇后陛下のお命を狙った不逞の輩。撃たれて当然です。どうかもうそのことはお忘れ下さい」
「嫌よ……忘れるなんてそんなことできないわ……いや……お願い、私を天津へ返して! 私は人を撃ったのよ……! 人殺しなのだわ!」
 頭を両手で押さえ首を激しく振り、金切り声をあげてがくがくと膝を震わせる。殺人というおよそ耐えがたい衝撃に半狂乱になっているのだった。
 無理もないと、璧輝は思う。満洲旗人の家柄に生まれ、天津のフランス租界に育った上流階級の令嬢だったという。既に滅亡した清王朝に輿入れしなければ、今こうやって人を殺めることも無く、もっと違う人生を歩んでいただろうに──。
 今にも崩れ落ちそうになる婉容の身体を璧輝は抱きとめ、叫び声を抑えるためにその顔をぐっと自分の外套の胸に押し当てた。

 エレベーターが四階に到着し扉が開く。待ち構えていたかのように扉の両脇で守備をしていた二人の日本兵が抜き身の軍刀を向けた。
「甘粕の代わりに来た川島だ。慕鴻皇后陛下をお連れした。部屋に案内しろ」
 抱きかかえた婉容が確固たる通行証となったらしい。日本兵は軍刀を下ろすと二人を貴賓室の前まで案内した。
「御苦労。甘粕以外の人間は一切ここに入れるな」
 言い捨てて璧輝は室内に入った。

 大連一の格式を誇る、ここヤマトホテル。その貴賓室は通常の客室の三倍はあろうか。主寝室・客間・リビングとそれぞれゆとりの広さを設けてあり、バス・トイレも充実した設備を備えていた。璧輝は部屋に鍵をかけると、暴れる婉容をまずリビングのソファに座らせようとした。
「放して! ここにいたくないわ……私は人殺しなの……嫌よ……満洲に来たからこんなことになったのだわ……お願い! 誰か私を天津に連れて行って!」
 絶叫し、この華奢な身体のどこからそんな力が出てくるのかと呆れるほど抵抗する婉容。事情を知らない他人が見たらきっと軽い乱闘騒ぎと思うであろう。何とかして落ち着かせようと、彼女を押さえつける腕に力を込めるたび、創口からの出血と痛みはひどくなる。羽織っていた外套は床に滑り落ち、璧輝は貧血でその場に卒倒しそうになるのを気力で必死に持ち堪える。両手にはめていた血で汚れた手袋を取って床に投げつけ、婉容をソファまで引きずるようにして連れてくると、満身の力を込めて彼女を抱き締めた。

「皇后陛下は私の命の恩人でございます!」
 掠れた声が確実に婉容の心に届き、璧輝の放ったこの言葉が彼女の自制心をやっと取り戻させた。婉容の興奮は治まり、嘘のようにぴたりと静かになった。
「あの時皇后陛下にお助け頂かなければ……今私はここにいることが……」
 けれど最後まで言葉を繋ぐことが出来ずに、力尽きた璧輝は婉容の身体をすり抜け、どさりとソファの上に崩れ落ちた。
「金璧輝!」
 必死に持ち堪えていたがその身体はとうに限界を超え、多量の出血のために軍服の上着右半分が鮮血で染まっていた。 
「お願いしっかりして……一体どうしたらいいの?」
「バスルームに行ってタオルを……」
「え?」
「止血するので……お手数ですが……皇后陛下……」
「わかったわ、少しお待ちになって」
 婉容は慌ててバスルームに駆け込んで、あるだけのタオルを抱えて戻って来た。
「身体を起こせる?」
 璧輝は頷くが、どうにも力が入らない。婉容は見かねてその身体に手を掛け、ゆっくりと引き起こした。ソファの背もたれに上体を預けさせ、婉容は背後から血で汚れた軍服とベストを脱がせてやる。
「汚いことをさせて……すみません……」
「こんなときにそんなこと気にしないで。それにしてもすごい出血!」
 おそらく発熱しているのだろう、激痛に歪めた蒼白の横顔に玉の汗がびっしりと噴き出ている。婉容はタオルでその汗をかいがいしく拭き、血と汗にまみれたワイシャツを脱がせた瞬間、あっと息を呑んだ。