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我的愛人  ~顕㺭和婉容~

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第二章



 まだ日付の変わらないその日の夜更け、璧輝の運転する車が音も無く滑るように埠頭に到着した。先に素早く車から降りて婉容の為にドアを開ける。夜の冷たい外気が無数の矢となって容赦なくその青白い頬を突き刺してゆく。婉容は帽子を目深に被り、オーバーコートのファーに顔を埋めた。震えが止まらないのは寒さのせいだけではない。着のみ着のまま、手にした荷物はハンドバック唯一つ。それを固く握りしめて、彼女は前を行く璧輝の防寒外套を纏った後姿をじっと見つめながら無言でついてゆく。

 するとその璧輝の前方に同じく外套姿の三人の日本兵が、まるで亡霊のように闇から浮かび上がった。そのうちの一人は璧輝から車のキーを受け取ると、そのまま二人が乗ってきた車に乗り込んで、来た道を速やかに引き返していった。
「手筈は?」声を潜めて璧輝が問う。
「すべて整っております」
 残された二人はおそらく護衛なのだろう、踵を返すとやはり無言で歩き始めた。
 埠頭は墨をこぼしたような深い闇にすっぽりと覆われて、海と陸の判別がつかないほどだ。気の遠くなるような、重くずっしりとのしかかる静寂。それがよけいに神経を張り詰めさせる。無機質な靴音が敷き詰められた石だたみに打ち付けられ跳ね返り、さらに大きく埠頭に響き渡る。緊迫した空気の中、暫く歩くと明かりを消した一艘の小型の汽船が闇から不気味に姿を現した。全員無言で素早くそれに乗り込むと、すぐに船は岸壁を離れ、同時に船室内に灯りが点いた。
 
 狭い船室に押し込められた婉容はまんじりともせずに中を見廻して、すぐにそれが旅客船ではなく輸送船であることに気づいた。ドアの両側には二人の日本兵が立ち、辺りには薄汚れたいくつかの土嚢と壊れかけた木箱の残骸が散乱していた。
「ご不自由でしょうが、暫くの辛抱です。どうぞおかけ下さい」
 婉容は璧輝に促され備え付けの椅子に腰かけた。
 丸い小さな窓を覗くとおそらくあれが陸地の外郭であろう、縁取られた細かな星のような幾つもの街の明かりがゆっくりと遠ざかってゆく。
 押しつぶされそうな恐怖と僅かな好奇心とが入り混じった、複雑なこの気持ちを、確か以前にも味わったことがある。それは間違い無く、全くあの時と同じだった。
 まだ自分が少女の頃、前時代の遺物とも言うべき清王朝という未知の世界へ、顔さえ見たことの無い皇帝溥儀の許へと輿入れした、あの時と同じ気持ちを今また味わっているのだ。
 
 婉容は相変わらず漆黒の外界をぼんやりと眺めている。
 自分の人生はまるでこの古びた船のようだと、今更ながらつくづく思う。自らの意思とは遠くかけ離れた所で、運命という暗く広大な海の上を、当ても無く人に操られながら彷徨っている。
 きっと天津には二度と戻ることはないだろう。自分の生れ育った懐かしい街。紫禁城を追われ、皇后という身分を忘れ、自由な束の間の幸せな時間を過ごした街に二度と決して戻ることは無い。そんな哀しい確信が、紙に滲む漆黒のインクのように胸の奥にじわじわと滲みてゆく。
 一体自分は何処に行き着くことになるのだろう。
 今となっては何故か総てが遠い昔の事のように思われて、次第に離れ行く陸地を、婉容は名残惜しむかのようにいつまでも食い入るように見つめていた。

「ご心配には及びません。皇后陛下が向かわれている満洲の地もきっとお気に召すはずです」
 まるで心を見透かしたように、隣に座っている璧輝が静かに声をかけた。婉容は驚いて璧輝を見つめた。そして投げかけられた璧輝の言葉に何も応えぬまま無言で冷ややかな一瞥だけを投げると、視線を再び窓の外へと戻した。
 
 沈黙という重い荷を乗せたまま、どのくらい船は進んだろうか。突然岸の方から停船を迫る中国語の怒鳴り声が聞こえた。
 璧輝は素早く席を離れ、ドアの両側に立っていた日本兵と血相を変えて何やら早口の日本語で話し始めた。すると二人の日本兵は慌てて甲板へと飛び出してゆく。三人の話の内容は分からなかったけれど、その状況、慌て具合、緊迫した表情からしてここは中国軍の勢力下なのだろうと婉容は理解した。
 冷たい窓に顔を当てて見ると、船は速度を落として岸壁に近づいて行ったかと思うと同時に灯りが消え、突然岸から激しい銃声が轟いた。