携帯電話
一時間くらい待っていてくれてもいいじゃん。美怜はそう思ってむくれる。でももし反対の立場だったら完全に自分は帰っているけれどね、と都合のいい事を考えたりもする。とりあえず喉も乾いたことだし、一杯ラテを買ってカウンターに座ってしばらく待つことにした。
携帯があればこんなときメールでも電話でもできるのに。すぐに雅也の声が、男子にしてはちょっと高めの、それでいて優しいあの声が聞けるのに。ワンプッシュで繋がる気軽さに携帯番号を控えておかない、覚えていない自分に後悔してもあとの祭。なんとももどかしい想いが脳内を駆け巡る。店の入口付近に人影がチラつくだけで色めきたってしまう。不安と焦燥でどうしようもなく動揺している。三十分待ち、さらにもうすぐ八時になろうというところで美怜は諦めて席を立った。
「美怜!」
店を出たところでふいに声をかけられた。今日一日で何度も何度も脳内再生した、男子にしてはちょっと高めのあの声。
「雅也!」
今まさにエスカレーターから上がってくる雅也を美怜の瞳が捕えた。
「大丈夫だったか? 人身だったんだって? 携帯ニュースで知って、こりゃ美怜遅れるなと思って連絡したけど全然繋がらないから……お前、今日、携帯忘れただろ?」
メガネの奥の心配そうな瞳。それでいて優しく見守っていてくれる瞳。美怜は力がするすると抜けていくような気がした。やっと会えた。声が聞けた。
「そうなの。ゴメン。昨日の夜雅也と話してそれっきりベッドに忘れてきちゃって……」
「バッカだなあ。そそっかしいのは相変わらずだし。ま、いいよ。こうやって会えたんだから」
雅也の大きな掌が美怜の頭を優しく撫でた。その優しい重みにほっとする。
「雅也は今までどうしてたの?」
「ん、まあ……下で本見てたりCD買ったり。適当に時間潰してた。あ、一緒に聴けそうなヤツあったぜ」
「そっか……」
こっちはかなり焦ってたのにこの呑気さ加減。でもまあ、いいか。行き違いにならずにやっとこうやって会えたことだし。美怜は甘えるようにぎゅっと雅也の腕を掴んだ。
「映画、ダメになったね」
「なんの。ラスト回が八時五十分からだって知ってた?」
「ほんと?」
「そ。だから今から急げば何とか間に合う」
二人は目を見合わせた。そしてにんまりと笑う。美怜はさらに腕にしがみつき、雅也は美怜の肩にしっかりと手をまわす。
ああ、やっと会えた待ちわびたこの瞬間。長かった一日。もし携帯があったならこんなに待ち遠しくてもどかしい思いはしなかったのに。
「行こ、雅也」
だけど、携帯がなかったからこそ、雅也と会えたこの安堵感と恋しい想いは一層勝る。がっしりとした腕に甘える美怜の額に、そっと雅也の唇が触れた。