701号室
「でも、701のタオルって病室から直接回収しますよね。今朝バケツが空っぽだったんですけど、ベッドが空いてるのがわかったとき、なんかしみじみした気分になっちゃって」
浩一郎は手のなかで飲みかけのジュースの缶をゆっくり回した。「なんか不思議なんですよ。こっちのこと見えてたのかどうかもわかんないし、いつも毎日タオル回収してただけなんですけど、なんか足跡つけられちゃったっていうか……、いつもあったものがなくなると、こんなにずっしり存在感が残るものなのかなあって」
中山はパック入りのジュースをまたあおるようにして喉に流し込んだ。
「忘れるよ、すぐに。また次の患者がすぐ入るからな。前とおんなじように回収する日がまた始まるんだから」
立ち上がると、「さあて、一服してくるか。外はいい天気なのによ、こんなとこで馬車馬みてえに働かされてたら、こっちが病気になっちまうよなあ」と言って、休憩室を出ていった。
まだ十二時前の休憩室は閑散としている。時計の針がぐるぐる回り続けているような病院のなかで、ここだけはいつも平和でまのびした空気が漂っているような気がする。
たしかに、この巨大な病院では患者の死はありふれた風景のひとつにすぎない。それなのに、701号室のあの老人の死は、なぜか浩一郎の目の前を素通りしてくれない。
すこし離れたテーブルをかこんだ若い看護婦が四人、弁当をひろげ、おしゃべりに夢中になっている。ひときわ声の高い一人が何ごとか冗談を口にすると、三人の健康的な明るい笑い声がどっとわいた。
数日後、朝のタオル回収時に701号室に目を向けた浩一郎は足を止めた。あのベッドに見たことのない老人が横たわっている。人工呼吸器はつけていないが、頬肉は削げ落ち、まぶたを閉じた顔は苦しげにゆがんでいた。
足もとに小さいポリバケツがまた置かれている。台車を廊下の壁際に寄せて停め、急いでバケツを取ってきて蓋を開けた。うっすらと便で汚れたタオルが一枚入っている。
浩一郎はビニル袋ごとそれを取り上げ、台車のなかに入れた。新しいビニル袋をバケツにつけ、手早くもとの位置に戻す。
なぜかふいに、このあいだ見た朝の太陽を思い出した。地平から昇ったばかりの、鮮血がしたたるような大きくて真っ赤な太陽。人間の力ではどうにもならない、何かとてつもなく強い意志のかたまりのようだった。
浩一郎は台車を押しながらナースステーションの角を曲がった。大きな花瓶からあふれだすように枝を伸ばしていた桜が、もう片付けられ、なくなっていた。
東側の窓からなだれ込んできた朝の力強い光が、そこらじゅうに反射していて、ひどくまぶしい。
その金色の光の洪水のなかを、浩一郎はエレベーターホールに向かってまっすぐに進んでいった。