春の嵐
2
「香穂子、お願いっ!」
――金曜日の朝。
香穂子の顔を見るなり、下田は大袈裟に掌を合わせて、ぺこぺこと頭を下げた。
「今日の午後、買い物に付き合って!」
「えっ、いきなりどうしたの?」
詳しい話を聞けば、先日の合コン話の延長で、明日、森林公園でバーベキューパーティをすることが決まったらしい。
「バーベキューには参加しなくていいからさ……お願い、協力してくれないかな? 買い出し要員が足りないの」
「うん……買い物ぐらいなら、構わないけど……」
バーベキューには参加しないと念を押して、香穂子は首を縦に振った。下田はにんまりと笑って香穂子の手を握る。
「本当にありがとう! 恩に着るわ」
「どーも、港南大の外山です」
「同じく野崎です。ヨロシク」
まるで見覚えのない茶髪の男子学生二人に挨拶されて、香穂子は激しく狼狽えた。
よく言えば、親しみやすい……悪く言えば軽い風体は、彼女の周辺にはいないタイプの男性である。香穂子の警戒レベルを引き上げるには、それだけで充分だった。
「いきなりで驚いた? 車を出してくれるって言うから、お願いしちゃったんだ。二人とも港南大の二年なんだって」
下田が補足説明を付け足す。
もう一人、下田の隣で所在なさげに立っている男性は、星奏学院大のクラスメイトで、名前は確か……上条修也だったと記憶している。
「上条君は、香穂子も知ってるよね」
「う、うん……」
「ちゃんと話すのは初めてだね。日野さん、今日は宜しく」
どうやらこの五人が買い出しのメンバーらしい。
「今日はオツカレ! 買い物が終わったら、みんなでカラオケにでも行こうよ。それともボウリング?」
野崎が人懐こい笑顔を浮かべて、香穂子に言い寄ってきた。
「えっ……でも、私……」
助けを求めて振り返ると、下田は小さく舌を出して、香穂子を拝むようなジェスチャーをしている。
「……ゴメン。どうしても香穂子に会いたいって頼み込まれちゃって……。ね、今日一日だけ付き合ってくれれば、それでいいからさ……お願い」
腑に落ちない部分も大きい。だが、下田の面子だってある。ここで露骨に拒絶すれば、彼女の顔に泥を塗りかねなかった。
「しょうがないなあ。一度だけ……だよ」
車の運転は野崎が担当した。
兄の名義だという、ホワイトパールのミニバンの助手席には外山、香穂子たち星奏組は後部座席に座る。
形式的に交わした自己紹介の中で、彼氏がいないことを軽く確認されたことを除けば、香穂子が怖れていたような強引なアプローチの類は一切なかった。
郊外の大型スーパーを何店舗か回り、バーベキュー用の肉と魚介に野菜、それに大量の飲み物と菓子を買う。
買い出しがただの口実ではなかったことに、香穂子は内心ほっとしていた。
買い出しのリストの最後は炭だった。
「ここで買うのは炭だけだね。オッケー、私が行くわ」
ホームセンターの駐車場に車が駐まると、現金の入った封筒を握り締めて、下田が車を降りる。
「待って、炭は重いから俺も行くよ」
上条がそれに続き、結果的に港南の二人と香穂子が車内に残されるかたちとなる。急激に漂い始めた緊張に、香穂子は思わず身体をすくめた。
「日野さん、お疲れさま」
先に緊張を破ったのは、外山だ。後部座席に身を乗り出して、スポーツドリンクのペットボトルを差し出す。
「喉、渇いたでしょ? これ、どうぞ」
ペットボトルを見て初めて、香穂子は喉の渇きを意識した。前の店では大型カートで駐車場と店を往復したから、おそらくはそのせいだろう。
「あ……ありがとう」
何の疑いも抱かず、香穂子は受け取ったそれを口にした。
香穂子の白い喉が、透明な液体を嚥下する度、微かに震える。その姿を見守る男たちの口元が醜く歪んだことに、彼女は最後まで気付かなかった。