境界線
「暦の上だと春なのにね。」
そう言いながら彼女は、そのすらりと長く白い両の指に息を吹きかけた。
3月も終わりに差し掛かり、街の大きな広告では春の新作であろう服を着たモデルがこちらに微笑みかけている。
さすが芸能人だな、と何の考えも無くそう思っていると、隣から嬉しそうな声が聞こえた。
「見て!あれ、すごくおいしそうじゃない?」
目が輝くってこういう事なのか。
そう感じずには居られないほど、彼女の瞳は光っていた。
思えば、今デザート店のウィンドーに飾られている偽者のデザート類を見て今にも涎を垂らしそうなこの彼女も、黙っていれば美人だ。
背は女性の標準値とほぼジャストだとは思うが、目鼻立ちがハッキリしている上にぱっちり二重。
唇も薄くスラッとした体系で、肩まで伸びている茶髪が風でさらりと宙に浮く。
さっき見た広告のモデルと並んでも、そう大差ないのでは無いかと思う。
「この店にする?」
私がそう提案すると、彼女は首を勢い良くこちらに回して、さっきよりもっと輝いた瞳でいいの!?と返してきた。
彼女がディスプレイに夢中になっている間に財布と終電から許可は得ていたので、もちろんと頷いてさっそく店内に入ることにした。
店自体はモダンな造りになっていて、少し狭かった。
夕刻だからだろうが、人はほとんど居らず、どの席にしようか少し迷った挙句窓側の二人席を選んだ。
窓から見える人波とこの店内の時間差に少しばかり優越感に浸っていると、疲れたねと彼女が言った。
「そうだね。」
「今日はありがとうね、わざわざ付き合ってくれて。」
「いいよ、どうせ暇だったし。」
「私は年中暇人です、って?」
「いいえ、自由人なのですよ、社会人さん。」
何それ、と言いながら彼女は笑った。私も釣られて笑った。
彼女の笑顔が好きだ。
幼い頃からずっと、私の心を照らし続けてくれた。
どんなに苦しくても辛くても、彼女はそっとそばに居て隣で笑ってくれた。
だから私は、例え虐められようが裏切られようが傷つけられようが、どんな事でもその笑顔1つで乗り越えられた。
「アンタも早く社会人になりなさい。」
「そのうちね。」
「アンタのそのうちは永遠に来ないわ。」
「酷いな。じゃあ、社会人になって大手企業の社長になったら結婚して。」
「玉の輿か。でも残念、私にはあの人が居るからね。それにアンタは女でしょうが。」
そりゃ残念、と肩を竦めながら私はいつの間にか来ていたコーヒーに口を付けた。
砂糖が足りなかったのか、いつもよりコーヒーが苦く感じられた。
あの人、とは彼女の恋人だ。
結婚を前提に付き合っているらしい。
付き合い始めに一番に紹介されたその彼は、見た目にも分かるほどの優男だった。
常にヘラヘラしているその顔は、それでも私の大切な彼女を傷つけるような事は滅多にしないだろうと確信させた。
これまたいつの間にか来ていたガトーショコラを幸せそうに頬張っている彼女は、それでもあの時の方がとても幸せそうな笑顔だった。
長年私がさせたいと願ってきた笑顔に、彼は意図も簡単にさせたのだ。
少しくらい嫉妬したって損は無いだろう。
「やっぱりすごくおいしいね。」
「そうだね。」
「ね、そのチーズケーキ、ちょっと頂戴。」
「わかった。」
はい、と一口分のケーキをフォークに乗せて差し出すと、何の躊躇いも無く彼女は顔を突き出して頬張った。
分かっていたはずなのに少し心臓を躍らせてしまった。
お互いに餌付けをし合って一体何年になるのか。それなのに、未だにこの心臓はどくんと跳ねる。
「ん、おいしい。次それにしようかな。」
「このガトーショコラもおいしい。丁度いいほろ苦さで、これは生クリームと相性ばっちりだね。」
「ケーキの事になると、私より口数多くなるよね。」
「・・・悪かったわね。」
好きなんだからしょうがないでしょ、と思いながらケーキを口へ運んでいく。
もっとも、何より好きなものに関しては何も言えない。
どんな言葉を並べた所で、結局好きという二文字に落ち着いてしまうのだ。
理由を聞かれても、全部という二文字で終わってしまう。
「今度、彼をここに連れてこようかな。」
「いいんじゃない?あの人も甘いもの好きだったでしょ?」
「うん。甘いのも辛いのも大好きだよ。」
「お、じゃあ気をつけないと将来HDMになるかもよ。」
「・・・そうなっても愛してみせる!」
「ふふ。ま、愛想尽いたらいつでもおいで。アンタだけは一生面倒みてあげるから。」
「面倒見てもらう、の間違いじゃないの?」
そうしてまた二人で笑っていると、ふと彼女の手が私に伸びてきた。
その指先が私の口元に触れて離れて、今度は彼女の唇に運ばれていった。
「付いてた?」
こくり、と頷く彼女を見て納得した。
どうやら私の口元に付いていた食べかすを食べてくれたらしい。
太陽なんてとうに沈み、ムードを出すためにほんのりライトアップされている店内。
相変わらず嬉しそうに次のケーキを選び出す彼女を見て、早くいい男を見つけようと知らない誰かに誓った。