喫茶サボテン
* * *
今年も上野公園の桜が満開を迎えた。
アメ横も一層賑わいを見せる。
この日も時間通りにサボテンへ顔を出すと、窓際の「指定席」に案内される。
最近、日本語が少し上達した中国人ウエイトレスの張さんが言う。
「もすこし、はやく、きてたら、あそこ、ひと、いました」
張さんともすっかり顔なじみになった。
いつものように読みかけの文庫本を手に取り、栞が挟まれたページを開く。
2本目の煙草に火をつけると、一組のカップルが隣の席に案内された。
ちらと覗くと、彼氏と思われる男の子がコンパクトデジカメを取り出す。
同時に女の子が銀塩カメラをテーブルに置いた。
よく見るとそれは、Nikon F2だった。
* * *
5年前、彼女と何度も上野公園へ出かけた。
彼女は写真が好きだった。どこへ行くにもカメラだけは忘れなかった。
ワンルームのアパートに自作の暗室を設けていたほど、といえば、
彼女の写真に対する情熱もわかるだろう。
学生時代は親の反対を押しきり、小平にある美大で写真を専攻していたほどだった。
彼女が大事にしていたカメラは、父親から譲り受けたNikon F2だった。
俺が写真に興味を持ったのも、そんな彼女といつも一緒にいたからだ。
上野散策の締めくくりは、いつもサボテンだった。
彼女は冬でもアイスコーヒーを注文した。
しかし、ある時期を境に上野公園へ出向くことはなかった。
互いの距離感が掴めぬ冬の終わりに、彼女が妊娠していることがわかった。
でも、俺との間にできた子供ではなかった。
春を迎える前に、ふたりは別れた。
結果的に彼女はシングルマザーの道を選んだ。
* * *
隣の席の会話は、まったく耳に入ってこない。
残り数ページとなった読みかけの文庫本は、最後まで読みかけのままだった。
気が付くと隣のカップルはいなかった。
強い光が窓から射し込む。
さて。
張さんに挨拶をしてサボテンを後にする。
また代わり映えしない一週間が始まる。
“では、来週”
アメ横に正午を知らせる鐘が鳴った。
「こんにちは」
「いらっしゃい、ませ」
張さんが窓際の席へ客を案内する。
「あらぁ。おおきく、なりました」
張さんが付け加える。
女性はベージュのキャスケットをソファへ置き、子供を向かいに座らせる。
メニューを広げていくつか指差し、最後にアイスコーヒーを注文した。
女性は年季が入った銀塩カメラを手に取り、子供にレンズを向ける。
「すっかりこの子もカメラに慣れちゃったな」
一緒にきた男が笑いながら言う。
御徒町駅を出発した山手線が、窓の向こうに現れる。
オヤジは競馬新聞に赤ペンを走らせる。
恋人たちは談笑する。
サボテンはいつもと変わらない。
駅のベンチで地下鉄を待つ間、先へ進まない文庫本を開く。
そしてまた、彼女のことを考える。
完