甘夏ほろり
なにを見ているのかと思ってその子の視線の先を懸命に目を凝らしてみたが別になにかいるわけでもなく、それでも瞬きもせず石膏像のように固まったまま一点を見つめているのはどうやら物思いかなにかに浸っているのだろうと思った。さっきの女性の事を考えているのかもしれないと僕はとっさにそう思った。あの女性はあの子の母親なのだろう。あの子の事を連れ戻しに来たのだろう。
僕は手元にあったメモ用紙を破り、手早く書き付けると紙飛行機を折って彼女の頭に狙いを定めて飛ばし、飛行機は見事その子の髪の毛に命中して刺さった。その子は不意をつかれたからか、思いの他かなり吃驚して目と口をあらん限り開いてビクッと大きく一回体を痙攣させて、下に落ちた紙飛行機に等目もくれず素早く周りを見回した。その様子を少し首を傾げて見守っていた僕を見つけると女の子は鋭く睨むように一瞥してから、振り返って下に落ちた紙飛行機を取りに身を屈めて潜っていった。メモ飛行機には昼過ぎに森に来てよと書いたのだ。女の子の頭が再び浮かび上がってきたのが見えたが、特に後ろを振り向くわけでも窓から外を眺めるわけでも紙飛行機を投げ返してくるわけでもなく他の子と同じようにパソコンに向かってキーボードを叩き始めたのが単調な頭の動きでわかったので、僕もヘッドホンと眼鏡をつけてパソコン画面に表示された数式の羅列に戻っていった。微かに何処かから山鳩が鳴いている昼寝を誘うような眠たくなる規則正しい声が聞こえた。
ようやく自分で決めた分だけの課題を終わらせた僕は遅めの昼ご飯を食べると、スケッチブックを片手にいつもの場所に向かう。
白い建物から芝の短く刈り込まれた庭に出ると、一番太陽が高い活動時間の為に所構わず乱反射する光の為に目が開けられないくらいだ。その圧倒的な眩しさに、逆に視界には何故か黒い滲みがボワーンと浮かび上がり目眩がしてどんよりと暗くなってくる。何事も眩し過ぎても明る過ぎても良くないと言う事なのだろう。程々がいい。
僕は額に手を翳し出来るだけ目を細めて、樹木や花等の寄せ植えすらも許されそうもないその芸術的でスタイリッシュな芝生だけが蔓延る庭を横切っていく。_を流れる汗を時々拭いながら横目で先日の食堂のように奇妙に静まり返っている芝生の原を眺める。どこもかしこもれっきとした生き物がたくさんいるのにも関わらず空気に満ち満ちている或いは堂々と横たわっている似たような種の沈黙。みっしりと敷き詰められて同じ高さに刈り込まれ不服この上ないお行儀を強いられている芝達は肩を寄せ合わせて一体何を思っているのだろう? 或いは慣れ過ぎてしまってそんな感覚すらなくなってしまっているかもしれないけれど・・・
前方にこんもりと柔らかそうに盛られた濃淡様々な種類の美味しそうな緑の海が広がってきた。真夏の太陽によく似合う熱帯雨林のジャングルさながらの魅力的な影をその懐にたっぷりとしたためた森だった。
艶やかで大きな葉から瑞々しく滴り落ちる程の生命に満ちているモンステラ。生気の微かな音を蒸発させている細やかな羊歯科の植物。それにシュガーバインのように美しい模様のように好奇心旺盛に頭上を覆う木々。絡まり合いしなやかに伸びている蔦科の植物。そしてガジュマル。恐らく到底シンガポールだとかアマゾンにあるような本物の熱帯雨林には敵わない所詮作り物に過ぎない森なのだろうけれど、ここの施設の気温はどちらかというと暑くて、熱帯の植物達が育ちやすいからか経営者の趣味かはよくわからないが、どりあえず子ども達の遊び場兼隠れ場所のなんちゃってジャングルは多いに人気があったし、つまらない古典の授業なんかよりも充分活躍していた。
「昔の人が使っていた言葉を習って、だからどうなるってもんでもないだろ。言葉は生き物だ。昔の言葉は昔の豊かな風景と共にもうなくなっちまってるんだ。今それを使って昔の文章を読み解いて、ただ単に人間の歴史はこんなに凄かったとかこんなに偉かったとかこんな事をして暮らしていたとかを証明したいんだろうが、そんな過去が一体これからのなんの役に立ってるんだか俺にはわからないし理解出来ない」
昔のマハラジャが召使いに扇がせていたような巨大な団扇のような立派なクワズイモの葉っぱの下に寝っ転がって白い服が汚れるのも一向に構わずに頬杖をついて分厚い本を読みながら豊が言った。
「だから豊は古典が嫌いなんだろ?」
向かい側に茂る羊歯の茂みに埋もれるように座り込むと僕は豊の言葉に突っ込んだ。
「古典だけじゃない。歴史もだ。人間は知恵がついたばっかりに己の欲に駆られて昔っから争いばかりをしてきました。そして今もしています。お終い。2行くらいで済む。30秒もかからない。時間をかけて人の名前だの年数だのを覚えるような大層な事じゃないし、そんな価値なんてない」
そんなことを言いながらも豊の視線は変わらず辞書のような本の上をなぞり続けている。その淀みなく無駄の一切ない様子に話すと手が止まってしまう不器用な僕は感心してしまう。
「人間である以上、今も昔もこれからもやる事は変わらないって事だ」
大人びた深いため息をついて豊は静かに目を閉じた。鳥の鳴き声が聞こえる。と言ってもジャングルにいるような色彩の鮮やかな極楽鳥やオウムだとかの類いではなくごく普通の小鳥だとかの声が戸惑ったように2、3度鳴いて溶けるように密度の濃い植物の息吹に飲み込まれて消えた。ザワザワザワザワと通り過ぎる風が葉を揺する音が聞こえてくる。ヒンヤリとした心地良い湿気に包まれ、僕は徐にスケッチブックを広げて色鉛筆で思いつくままに絵を書き始めた。
腕を組んでその上に顔を乗せた姿勢に崩れた豊はまだ目を瞑っている。小さな蟻が一列きょろきょろしながらやってきて、豊の前を忙しなく通り過ぎていった。もしかしたら眠ってしまったのかもしれない。羊歯の葉が僕の_を心地よく撫でる。
僕はやたらめったら色を画用紙に叩き付けるように塗り付けながら自然とあの女の子の事を考えていた。なんだい・・・来ないじゃないか。そんな事を思うにつれて画用紙が真っ黒になっていくのを僕は随分長い間気付かずにいた。それだから豊にずっと聞こえていた音ですら僕の耳には届かなかったのだ。
「・・・音がするな」
しばらくすると豊が目を開けてふと言った。画用紙めがけてひたすら無心になっていた僕は豊の言葉で現実に連れ戻されて急に周りの音が戻ってきた。耳を澄ますと確かに何処か遠くから本当に微かに風に音階をつけたようなメロディーが途切れ途切れに聞こえてくる。
僕達はどちらからともなくすぐに立ち上がると、本やスケッチブックを広げっぱなしで残したまま音を辿って夢遊病者のような足付きで歩き出した。自然と1つ年上の豊が前になって進み、僕は豊の背中を目で追いながら後をついていく形になる。別にその形に不満があるわけではないが、なんとなく居心地の悪さを感じながら少し遅れてついていく。羊歯やモンステラの切れた葉に紛れて泳ぐように進む光と影が斑模様に通り過ぎていく汗滲みが広がり始めた豊の小さな背中は勇ましさを感じはするもののどこか寂し気に見えたのだ。けれど、少し反応が遅くておまけに歩くのも遅い僕はいつも豊の後ろに並ぶ事になった。