甘夏ほろり
この施設の出入り口はあの門以外にもう1つあるが、その出入り口は職員しか知らない職員用の秘密の通用口だったので何処にあるのか子どもは誰も知らなかったし別段知る必要もなかった。ここにいる子どもはみんな訳ありで基本的には何処にも行く所がないし、刑務所のように無理矢理閉じ込められているわけでもなかったからだ。保護と言う名目の元、僕らはここで似たような境遇の他人と生活をしていた。
僕は、さっきの幽霊のような女性はあの門から入ってきたのだろうかそれとも何処か違う所から侵入してきたのだろうか? まだこの施設の中にいるのだろうかとそんな事ばかりが頭を駆け巡っていたので前を歩く豊が立ち止まったのに全く気が付かずその背中に突っ込んだ。
豊は少し前のめりに躓いたようになったが持ちこたえぐっと前方から目を離さずにいたので、僕も痛む鼻を押さえながら何事かとそっちを見た。黒っぽい扉が催眠術のような距離で規則的な間を置いて並び、向かい側は高い天井に届く程の四角形だとか六角形の形をした光の粒子が燦々と降り注ぐガラス窓が敷き詰められた気がおかしくなる程の長い長い病院のような名物廊下の遥か向こうから2人の職員に連行されるように両側から付き添われてさっきの小柄な男の子がしゃんとした姿勢をして真っ直ぐ歩いてきていた。
最近入ってきたばかりなのか見かけた事のないその子は斬ばらに切られた前髪に顔を覆われてはいたが、その細い髪の毛に見え隠れするようにして確かに左_に生々しい傷がアーモンド型の目の下から10センチ程伸びていた。
その子は窓際に寄り掛かって立ち止まって眺めている僕達を長い睫毛が影を作る生気の抜けたような灰色がかった瞳で見るともなしにぼんやりととりあえず視界に入れてから同じようにぼんやりと行き過ぎた。隣を通り過ぎ様にふと不思議な柑橘系の香りが鼻をついた。何処かで嗅いだ覚えがあるような懐かしいような不思議な香りのせいなのか僕達は2人共、奇妙な雰囲気をしたまるで連行される罪人のようなその子の姿が緩やかなカーブを描いて消えてしまうまでまるで魔法にでもかかったかのように呆然とそれを見つめていた。
「今の子・・・って」
僕はふと湧いて出た疑問を窓ガラスを背に腕を組んでなにかを思い出そうとしているように又なにかを味わっているように目を瞑って寄り掛かっている豊に聞こうとして変なよくわからない感じに言葉を切って口に出した。
「女だろうな」
同じ事を考えていたと見えて、豊は躊躇せずに僕の欲しかった答えを先回りしてさらっと答えた。
「不思議な匂いがしたもんね」
「いや、違う。そっちじゃなくて仕草が」
「わかんない。僕そこまで見てなかった。どうして男の子の恰好してるんだろうね」
「どんな恰好をしていようが、本人の自由だろ」
いつもの戒めるような突き放す様な豊からしい豊的発言に、僕はあぁそうかと頷きはしつつそれとは別にあの子に興味を持っている自分にも気付いていた。彼女は全体的に灰色がかってぼやけてはいたが小さな顔に生える長い睫毛に縁取られた灰色がかった色素の薄い憂鬱そうなアーモンド型の瞳に意思の強そうな形の良い唇とすっきりした鼻筋をした稀に見る綺麗な顔立ちをしていたのだ。
何事もなかったように再び歩き始めた豊の後を追いながら、さっき見た女の子の顔がやけに頭に張り付いて取れなかった。匂いとセットだったから余計なのかもしれないけれど。
擬似的な大袈裟すぎる程の小鳥のさえずりが建物内にうるさく鳴り響き一時限目の授業が始まった。
この施設で保護されているのは様々な理由で普通の学校に登校出来ない子ども達ばかりだったので衣食住だけではなく、教師を雇い施設内で勉強も教えていた。と言っても歳も学年も違う子どもらを大雑把に分類して3つのクラスに分け自分に合った課題を選んで学んでいる。主な教師はパソコン内のそれぞれのソフトだった。1つのクラスがパソコンを使って自習している時は、もう1つのクラスは外で体育だとかの課外授業をして、残りのクラスは英会話等の語学会話の授業をしているような形式だった。それがほぼ毎日午前中に行われた。それから昼ご飯の時間になり、午後は夕ご飯の時間まで自由時間だった。
食堂は常に開いていていつ行ってもなにか食べられたが、特にメニューがたくさんあって選べるだとか言うことではなく曜日によって大体食べられるものは決まっていた。それ以外の設備はカウンセラー相談室と図書館並の図書室と音楽室、校庭の半分を閉める熱帯雨林の森だけだった。
よくは知らないが何処かの金持ちの学者が酔狂で建設したのがこの施設らしい。親から切り離された子ども、または捨てられた子どもの保護と言う目的として人里離れた山奥にこんな大規模な施設を立てたのだが、実はそこに保護された子ども達から何らかの実験データを取っているとも言われていた。と言ってもそれが一体なんの実験だかとか、取ったデータをどうするのかだとかまでは知られてはいなかったし、もしかしたらそれ自体が単なる噂なのかもしれない。けれど、この施設の子ども達は普通に通っている学校の同じ年代の子ども達に比べれば格段に頭が良かった。施設学校は理解出来て意欲があればどんどん飛び級して次の学年の内容を学べると言う特徴があるからかもしれない。
僕は一番窓際の後ろの席に陣取り、パソコンの液晶を睨みながら課題に取り組んでいた。内容は数学。僕の最も好きな学科だった。この世の中に存在する質量や目方がこんな数字の羅列で表せるなんていう事自体が滑稽だし、見た目とは違った本質やその証明や方式も面白く、また単純な計算式ですら見ているだけでなんとなくへぇ〜成る程ねぇと感心していつまでも見入ってしまう程だった。豊にすら数学者だなんておちょくられている程だ。豊は僕とは違うクラスの最上級生だった。ここでいう上級生とは歳や学年に関係なくパソコンが判断した知能レベルで判別されてそう呼ばれている。日本の一般用語ですら通用しないような所謂閉鎖的な空間であるこの施設ならではの呼び方だった。
幾つかの課題を夢中になって仕上げてしまうと僕はふと目を休める為に専用の眼鏡を外し、耳の何倍も大きなヘッドホンを取って顔を上げて息をついた。漂白されたようなだだっ広い空間に所狭しと並んだ巨大なパソコンの群れに埋もれるように幅広のバンドをした髪の毛だらけの小さな頭達が彼方此方から覗いて微かに動いている。聞こえる音はひたすらキーボードを打つ音だけだった。監視係と称して一応段上の机のパソコンの前に座っている老人職員は口元をだらしなく緩ませてこっくりこっくり居眠りをしている。今にも涎が垂れてきそうだ。
窓ガラスには夏真っ盛りの生き生きとした若木の群れが力強い新緑を煌めかせてまるで絵画のように張り付いている。僕は頭を休める為に少しそれらを眺めていたが、ふと僕から2つ程前の席にあの女の子がヘッドホンも眼鏡もつけずに頬杖をついてぼんやりと窓の外を眺めているのを発見した。