甘夏ほろり
母ちゃん・・・
白いカーテンが微かにそよぎ、そうして今朝も目が覚める。既に蝉が喚き始めていて一日の暑さを予感させている。僕は音もなく起き上がり、随分と長い間いるのにまだ上手く馴染めない清潔そのものの部屋を見渡す。壁も天井もカーテンもなにもかもが石膏のように真っ白な抗菌されたような部屋。黴菌なんて寄り付きもしないだろう非現実な部屋。カーテンを開けても閉めても眩し過ぎるし、何処もかしこも朝の光を反射して目が痛くなる。まるで過去現在未来の時の流れの中で手違いで出来てしまった隙間や偶然ぽっかり空いてしまった虚無の空間に足を突っ込んでしまったみたいだ。苛々する。僕は白なんか大っ嫌いだ。
それでも仕方なく白い椅子にかかったこれまた白いシャツと半ズボンを身に着けていると誰かが呑気な音をたてて扉を叩いた。そんな音だけで誰だかわかるだなんて世界はなんて小さな彼方此方でそれぞれの個性に満ち溢れているのだろう。
「おす。飯食いに行こーぜぃ」
ぼさぼさの墨のように真っ黒い髪と揃いの黒曜石のような真っ黒い瞳が特徴的な豊は僕よりも先にここにいて、僕よりも少し先輩だった。顔を洗った時に拭いたのか既に白いシャツを滲みだらけにしてくたびれた感じで着ている。僕と同じで白が嫌いだと初めて話した時に言っていたので、わざと汚していないと落ち着かないのだそうだ。そのせいでいつも職員達から叱られて目を付けられてはいるが、豊は全く気にしていなかった。
「汚そうがどうしようがそれで困るのは俺だろ。俺が好きでやって気にしないんだからよ、いちいちぐちゃぐちゃ言われたかねーぜ。大体、どうしてみんな揃いも揃ってバカみたいに同じ服を着なきゃいけないんだ?」
地味な色合いのスーツを着た施設の大人に幾度となく注意されても豊は反論し続けた。なので、豊は職員の間では何人かいる手に余る子どもの類い俗に言う反逆者だった。とは言っても、豊は暴れたり物を壊したりしてただ問題を引き起こしている他の反逆者とは異色だった。彼はずば抜けて頭脳明晰だったのだ。
一面ガラス張りのこれまた眩し過ぎる食堂で規則正しくきちんと設置されてあるおもちゃみたいな白木でできたテーブルの一角、食欲なく牛乳をもそもそと飲んでいる僕の向かい側に座り無言でロールパンを千切って口に放り込みながら予めかかっている多過ぎるケチャップをフォークの背でぬり伸ばして斬新な赤いオムレツを拵えていた豊がふと顔を上げた。その射るような鋭い視線が僕を通り越して後ろのなにかを食い入るように凝視している。それを追って振り返ると、食堂の入り口に見た事のない女性がぼんやり立っていた。全体的に食堂やそこにいる子どもらの雰囲気とは明らかに違って色褪せたような陰気な感じの女性だった。
その女性はあまりにぼんやりと生気もなく突っ立ていて一瞬すると自縛霊みたいに見えたので、僕はぎょっとした。
「あれ・・・誰だろ?」
僕がそう言うか言わないかのうちに、その女性が順番に朝食のトレーを持って進みながら前を通り過ぎた一人の小柄な男の子の所に駆け寄っていき、痩せっぽっちの折れそうな腕を掴みながらなにかを喚き始めた。
男の子の持っていたプラスチックトレーが思いのほかよく響きながら散乱する。前髪が長く顔にかかる男の子はわかるくらい真っ青になって固まっている。たちまち職員が数人飛び出してきて女性を押さえつけ男の子から引き離した。女性は気違いのようになって何事かを叫び続けて男の子の方に掴もうと手を伸ばしては空を掻いている。体格のいい男の職員が両脇をがっちりと固めるようにしてがなり立てる女性を食堂から連行していった。残された男の子は職員に付き添われて俯きながら女性が引きずられるように連れて行かれた大きな出入り扉とは反対の方向にある小さな扉の中へ吸い込まれるように入っていった。
その一部始終を見ていた子ども達は騒ぐどころか真っ青になって気分が悪そうに各自の食事に戻っていった。
男の子の取り落としたトレーに乗っていたお椀によそわれた牛乳が床に白い水溜まりを作っていて、ベージュ色のプラスチックトレーを持って規則正しく並びながら進む陰気臭い蒼白な顔色と服を着た子どもらがそこを跨いだり避けたりして通り過ぎている。そんな事には全く関係なく乳白色に広がる平和そのものの海にまるで取り残された小島のようにこんがりした嘘臭い色をしたロールパンがのほほんと浮かぶように浸されてロールパンを形作っている細かい組織の1つ1つが徐々に水分を吸収して重たそうな色に変わっていく様子を僕はなんとなく見つめていた。
しばらくすると職員が来てその穏やかな風景を雑巾でめちゃくちゃに壊して撤去してしまった。
一部始終を残念そうに見つめる僕に気付いたのか、豊がおいと声をかけてきたので振り返るとテーブルの上が乳白色の海で一杯になっていた。
窓ガラスから差し込む淡白な光を満遍なく分解しながら反射して、水面張力でプルプルと微かに揺れながらまるで本物のようにキラキラと波打って見えてその美しさに僕は思わず魅入ってしまった。
「海みたいだ。なんか なんかいいね。これ」
動く度に生じる僅かな振動を感じ取って小さな波紋を起こしている海は今にも流れ出しそうだった。
「これが島で、これが岩礁で、これが・・・遭難者」
豊はロールパンを景気よく浮かばせ、オムレツを崩して散らばせて、ブロッコリーの房を小さく毟って人参の欠片に乗せた。成る程、それは緑色をした2つの人形のようだった。どこまでも広がる白い海にあてどなく浮かぶ甘いような独特な匂いのする丸太に_まった遭難者。近くには島があるのにその島はふやけてしまいとても柔らかく不安定でとても上陸できるような所ではないのだ。
「遭難者。まるで僕達みたいだ」
「なんとなく生かされてはいるが、何処にも行く宛てもない行きたい所もない無力な小さな人間だな」
「・・・うん」
職員に見つかるとまたうるさいので僕達は乳白色の海をそのままにして、静止画でなら平和な題がつきそうなしかし沈黙した奇妙な空気に支配された食堂を出た。
清楚さの主張として作られたような滲み1つない長い廊下を歩きながら、横に広がる苔のようにもさっりと横たわる森の遥か遠くに閉ざされた頑丈な黒々とした鉄の門を見た。その門は長年固く閉ざされたままで開き方を忘れてしまったというふうに簡単に開くような類いの門には見えないし、事実そう簡単に開くものではなかった。鉄の門が古びた装置によって重々しく開けられる時は新しい子どもが死にそうな顔をして施設に来る時と、親と一緒に帰っていく時だけだった。けれど、送り出す子どもの為に開く事は滅多になかった。大体は新しい子どもの為に開くのだ。少なくとも僕がここに来て5年間は後のケースで開いた事はなかった。