失敗の歴史を総括する小説
リッチーは訊いた。ベネット女史は答えた。
「能力がないのではないわ。意志が弱すぎるのよ。それぞれが個をしっかりと持って、自らの行くべき道を模索する。そのためには対立を恐れないだけのガッツを持って生きていかないと。一見、個を抑え調和を保っていることが社会のためになるようでも、時に、対立を招いても安易な情動に惑わされないよう自らの意見を主張していくことの方が、社会のためになると考えるべきだわ。それこそが戦後日本の課題となることじゃないのかしら」
一九四五年八月
ベネット博士の「菊と刀」プロジェクトにおけるリッチーの役割は終わった。後は博士が、一冊の本に仕上げるための編纂作業に移ることになる。本は、きっとアメリカ人のみならず終戦後の日本人も読むことになるだろう。
戦争も終わりに近い。それはワシントンにいる誰もが知っていた。ドイツはすでに五月に降伏している。あの独裁者ヒトラーはベルリンで自殺し、ナチスは崩壊した。そのドイツのポツダムでアメリカ、イギリス、ソ連の首脳が集まり日本に無条件降伏を促すポツダム宣言がまとめられたと聞く。あとは日本がそれに応じるかだ。でなければ、空襲のみならず本土での地上戦が待っている。
都市はどこも焦土化し、物資もあまりない日本にこれ以上反撃するだけの戦力も戦意もあり得ない。終戦は近いとリッチーは確信していた。
リッチーは、数ヶ月ぶりにチャーリーに出会った。ポトマック川の岸辺を歩いていた時に見かけた。
これまで、感謝祭、クリスマス、イースターなどのパーティーで彼の家に招待されていた。チャーリーの妻子とも出会った。チャーリーの妻アンナはユダヤ人で、ナチス政権下の迫害を逃れアメリカに亡命したドイツ人である。その間に男の子と女の子が生まれた。どちらも育ち盛りで可愛い。これまでの国務省の仕事で世界中を転々としていたが、今度の戦争が終わったら国務省を辞め、故郷のテキサスに戻り、一家で牧場経営をしたいという話しをしていた。その時期もかなり近いと確信する。
「やあ、チャーリー、久しぶりだな。テキサス行きの準備は整っているかい?」
微笑みながらそう言い、リッチーはチャーリーが微笑み返すのを期待していたが、やけに表情が硬い。
「リッチー、実を言うと大事な話があるので君に会いに来たんだ」
実に深刻な表情をして言う。何とも嫌な予感がする。
「何を言っているんだ?」
「君はマンハッタン計画というのを聞いているかね」
「いや、知らないが、それがどうしたんだ」
「これは軍の最高機密で私も偶然耳にしてしまった情報なんだ。マンハッタン計画とは、原子力を使った大型爆弾を開発するプロジェクトだ。そして、それは先月成功したらしい。で、これから数時間以内に、その爆弾が日本に投下されることになる」
「原子力を使った大型爆弾?」
「たった一つで都市が丸ごと吹き飛ばされるほどの威力を持つらしい」
「何でそんなものが必要なんだ? 日本の降伏は時間の問題だ。都市を丸ごと吹き飛ばすとなれば一般市民が数多く犠牲になる」
「ある意味、実験なのかも知れない。戦争が終わった後に、この技術を活かすことを目的としているんだ。軍事にも政治にも」
チャーリーは、淡々とした口調で話した。
「ひどい。そんな実験のために。不必要な殺戮を行うなんて。これは虐殺だ。アメリカは何てことを行うんだ」
リッチーは、身震いしながら言った。
「虐殺? 日本にそんなことを言える資格があるのか。君は南京にいて、日本軍の蛮行を目撃したじゃないか。日本は中国やアジアの国々で散々虐殺を行い、その上、ユダヤ人を虐殺するドイツとも手を組んだ。これから行われることは日本にとっても、人類にとっても、とてつもない悲劇になるだろう。しかし、日本にとっては自業自得なことではないのか」
リッチーは、南京でのことを思い出しながら、チャーリーに言い返す言葉がなかった。自業自得か。でも、酷過ぎる。日本にそんな運命まで課さなくとも。
「それでなんだが、その爆弾が投下される攻撃目標というのがヒロシマだというんだ」
「ヒロシマ!」
リッチーは、思わず叫び声を上げた。
「君には事前に知っておく必要があると思ってね」
とチャーリーは言い、その場を去った。リッチーは、その場で芝生に腰を落とした。激しいショック状態に苛まれた。忘れることの出来ない人がヒロシマにいる。
「大西さん」と心の中で叫んだ。
その日、大西は庭の畑で鍬を持ちながら耕す作業をしていた。いわば日課である。新しい野菜を植えなければいけない。
この広島での生活は八年になる。かつていた網走に比べ気候は暖かいが、囚人には変わりなかった。ある意味、網走にいた時以上に囚人にされている気がした。八年間、まともに人と話すことがない。監視の警官以外に顔を合わすことはない。網走のような集団生活とは違う。住宅地の一軒家に住んでいるが外の様子は、全くうかがい知れない。手錠や鎖はつけられていないが、外に出ることは出来ない。空襲警報が鳴った時のみ、警官と共に防空壕に避難が許される。
もう大西は六十近い老人だ。頭はほとんど禿げ体力もない。日課の農作業も体に激しく応えるようになった。かつては軍人であり、新聞記者でもあった。体力には人一倍自信があった。体が年と共に急速に衰えている。少し早いかも知れないが寿命なのかもしれない。
人生の終わりは、国の終わりと同時期になると予感していた。それは、この大日本帝国の終焉が近いことを感じ取れるからだ。外の情報は何も入らないが、監視の警官達の様子、空襲警報の時、防空壕に入る人々の様子を見ていてすぐに分かる。
大西は、軍人になった時から、自らの命をこの国に捧げる覚悟をした。それは軍人から新聞記者になっても変わりなかった。この国のためにもと思い「言論の自由」を守るがため戦いを続けてきた。自由にものを言えなくなる社会は、いずれ滅びる。そういう社会は間違いを正せないからだ。
大西が新聞記者を辞めてから、日本は間違った方向を歩み続けてきた。誰も歯止めをかけられず。
新聞紙法違反で刑務所に入れられ新聞記者を辞め、出所後、劇作家となり、その後、治安維持法違反で検挙され再び囚人にされた。それ以来、ものを書くことがなくなった。字を読む機会も激減した。もし、新聞の記事を見せられても、読むことが出来ないかもしれない。そんな不安に襲われることがある。だが、それでも構わないのかもしれない。そう先は長くないのだから。
だが、どんなに時間が経っても、読むこと、いやそのまま覚えていて書くことのできる記事がある。それは、自らを言論の世界から追放した記事だ。それは自分が書いたものではない。だが、自分が書いたものと同じものだと考えていた。だからこそ、自らが書いた記者と名乗り、その責任を被った。それほどに力強い言葉が散りばめられていた。その一節は、不思議なことにその後の日本の行く末を予言していた。
「誇り高き大日本帝国は今や恐ろしい最後の審判の日に近づいているのではなかろうか。白虹日を貫けり、と古代の人が呟いた不吉な兆しが、雷鳴のようにとどろいている。」
作品名:失敗の歴史を総括する小説 作家名:かいかた・まさし