失敗の歴史を総括する小説
「リュウイチね。あなたのプロフィールについてはいろいろと知らされたわ。父親が日本人、母親は亡命ポーランド人だったのですって。生まれは横浜で、その後、上海で十六歳まで過ごす。その後に神戸に移住して、そこの高校を卒業後、大阪で新聞記者となる。その新聞記者を辞めた後に中国で貿易商となって、しかし、日本と中国との戦争が始まってからは日本に戻り、首相の補佐官になったのよね」
と老眼鏡をかけ婦人は書類を読みながら話した。
「いったい私が何の役に立つというのでしょう。そもそもあなたの任務とは何ですか。文化人類学とかいいましたよね。それが、国防総省から求められる任務なのでしょうか」
とリッチーは真剣な眼差しで婦人に訊く。
「そうよ。とても重要だわ。暗号解読と同じくらいね。私は、あなたから日本、つまりは日本の文化、日本人の民族性について調査を委託されたの」
リッチーは、ますます分からなくなった。
「何をおっしゃっているんですか。そんなことを軍が調査しているですって。驚きですね。今更日本についてですか。だって、日本とアメリカは九十年近い外交関係があるのですよ。日本を訪れたアメリカ人は数知れずです。日本についての資料もたくさんあるし、それだけで十分ではないですか」
「それだけでは十分といえないのよ。特に戦後の占領政策をうまくいかせるには」
「戦後のことですか?」
「そうよ。分かっているように、戦況はどう見てもアメリカが勝利するわ。いずれ日本は降参するでしょう。その後に大事なことは、日本をどう統治していくかということなの。仮にも戦闘をし合った敵同士だったのですもの、私たちは相手のことをよく知らないと、どんな抵抗を受けるか分からないからよ。その意味でもしっかりと日本人のことを研究しておかないといけないのよ」
「ですが、それでも私を呼ぶほどのことでは」
「私の学問ではね、フィールドワークというものが大事なの。資料だけでは十分ではないのよ。どうしても生の日本人の言葉を聞きたいの。だからといって、私のような年寄りが敵国に乗り込んで調査なんてできないのは分かっているでしょう」
やや冗談めいた口調にベネット博士はなったが、リッチーは真剣な眼差しで見つめる。
「日本人について何が知りたいのですか」
「私たち西洋人には分からないことがたくさんあるわ。特に戦場からの日本人捕虜についてのこと。国民国家一丸となり私たちを敵として憎んでいるかのように思えたのだけど、でも捕まった兵士たちは食事を与えると、すぐに味方の情報を提供して、中には米兵と戦闘機に一緒に乗って攻撃目標を教える者もいる程よ。この落差が理解できないの。そもそも、どうしてあんな戦争を起こしてしまったのか。それと日本人の民族性とどう関連するのかを研究したいの」
婦人の言葉は、とても活力があった。リッチーは、
「分かりました。協力しましょう」
と答えた。何となく自分に向いている仕事のように思えた。
「それでは、さっそくとりかかることにしましょう。そうだわ、あそこのサイドボードに置いてある二つのものを見てくれないかしら。このプロジェクトのタイトルとしたいの」
そう言われ、リッチーはサイドボードの置物に目を向ける。花瓶にそえられた菊と、武士道を象徴する刀の置物だ。
「どういうことなんです。菊と刀なんて」
「菊と刀、それこそまさに日本を象徴するものだと見ているの。優美で美しく繊細に手入れされた菊の花、でも、戦争となると恐ろしく凶暴になる性格のコントラスト、それこそが研究課題だわ」
ベネット博士との対話は、まず、基本的な日本の歴史についてからだ。天テラスなどの寓話から、飛鳥、奈良、平安、鎌倉、室町、戦国、江戸、そして、明治に入り近代に至るまで事細かにお互い語り合った。博士のこれまで目を通した文献に加え、リッチーがこれまで培ってきた知識を合わせ話し合った。もっともリッチーが日本の学校で学習してきたことは、必ずしも正しい知識であったとは言い難い。それは、日本が明治以来、明治政府を中心とする中央集権国家を目指すがため国策的にねじ曲げられたところがあるからだ。
日本という国が統一された国民国家であった歴史は実をいうとけっして長くない。戦国時代までは島国の中に数多くの勢力があったのを内戦に勝利した徳川家が統治する江戸幕府により日本という国の形が出来たが、それも二世紀半後、力を失い分裂の危機を迎える。危機は国内のみに留まらなかった。アメリカ海軍のペリー提督率いる黒船来航により欧米列強勢力の脅威にさらされることになる。
その危機を救ったのが各地方にいた武士階級のエリートたちだ。分裂する日本をまとめ上げるため、近代国家日本を江戸幕府にとって替わるものとして築き上げた。危機に対し真正面に立ち向かう武士道の教えにより成し遂げられたものである。それにより、各地方を統治していた藩は廃止され、中央集権政府に任命される県の知事が統治することになる。封建的な制度は廃され、西欧の近代文明をどんどん吸収していくこととなった。そして、アジアで初の憲法も制定された。
国家を統合する役割は、これまで表にはなかなか出てこなかった「天皇」が担うことになった。天皇を中心とする立憲君主制国家となったのだ。しかしながら、緊急時を除き実質的に天皇は象徴的な役割しか担わず、法律立案や行政は議会と政府が執り行うことになった。西欧に似た議会民主制を目指したのだ。また、「富国強兵」の号令の元、軍備も強化されていくことになる。
日本は欧米の帝国主義勢力に対抗するためアジアにおける領土拡大を目論む。朝鮮半島を攻め植民地化して、その後、中国大陸での権益拡大を目指す。その過程でロシア帝国と争うことになる。日本は、その戦いに勝利する。それは小国が大国を破るという前例のない偉業であった。
第一次世界大戦後、デモクラシー運動が盛んになった。リッチーも、その運動に加わった自らの歴史を振り返った。新聞記者となり普通選挙運動、婦人参政権運動、米騒動などの民衆運動を取材した。だが、自らの書いた記事により新聞社が政府から言論弾圧を受けた。帝国憲法では、言論の自由は「法律の範囲内」という曖昧な定義により制約され、統治権力が介入することもしばしばあった。だが、そんな中でもデモクラシーを求める運動は絶えず、ついには男性の普通選挙法が実現する。
しかし、状況は世界恐慌の到来で一変する。世の中が不況にあえぐ中、政府は有効な対策を打てないがため、軍部が台頭してしまったのだ。本来なら、軍部は政府の方針に反することはしないものなのだが、帝国憲法の欠陥ともいうべき軍の統帥権が中央政府から分離していたことが悪用されてしまった。
しかし、この軍部の異常なまでの台頭は、制度的な欠陥にだけ起因するものではなかった。それは、世論の後押しのせいでもあった。中国やロシアとの戦争に勝利し、帝国主義勢力の仲間入りをした国民は侵略戦争に異論を持たず、また、不況から抜け出す手立てとして軍の行動に期待を寄せたのであった。新聞もそんな世論に同調した。リッチーは、そんな変わりゆく日本に絶望し、新聞記者を辞めることになった。
作品名:失敗の歴史を総括する小説 作家名:かいかた・まさし