失敗の歴史を総括する小説
と龍一は中国語で銭に話しかけた。社内ではずっと日本語で対話をしていたから、そろそろ疲れただろうと思い、そう促した。
銭は、「では、お言葉に甘えて」と中国語での対話が始まった。
「どうだい、本社を見た感想は」
「ええすごいですね。これからここに何日か滞在できると思うと楽しみです。日本のいろいろなところを見てみたいです」
「そうだな。大阪だけではなく、京都なんかもいくといい。そうそう、君の新婚旅行の下見という感覚でどうだ」
龍一は、銭が婚約していることを意識して言った。
「そうですね。彼女を連れてくるといいかもしれません」
「ああ、ただ瀋陽に帰っても一人というのは辛いな。お互い幼なじみなんだろう。故郷の南京に残したままというのは心苦しいな」
銭は元々南京出身の青年なのである。大学から瀋陽に移ったのだ。
「ええ、でも仕方ないです。一人前の記者になって暮らしていくだけの身を立てるまでは一緒に暮らすわけには、と思っているので、だからこれから彼女のためにも頑張ります」
龍一は、それを聞いてほっと微笑んだ。銭がとても羨ましく思えた。彼の実家は南京の裕福な商家だが、三男なため跡を継がない代わりに大学までの学費と生活費を親から受けた。だが、好きなことが出来た分、卒業後は自前で生きていくという使命が課せられている。その上、愛する人と共に自分の家庭を築こうというのだ。自分は、そんな風に情熱を注げる伴侶に出会えていない。だかろこそ、彼には、頑張ってもらいたいと思うのだった。
バタン、と強い調子で、厨房服を着た中年男が焼き魚の皿をテーブルの上に置いた。
龍一と銭は、そこで会話を止め男を見上げた。この店の店主みたいな感じだ。
「おい、おまえらシナ人か、この店はシナ人と朝鮮人はお断りなんや。さっさと出ていけや」
男は声を荒げて言った。
「いったいどういうことだ。そんな差別がどうして認められるんだ。私たちは誰にも迷惑はかけてない」
龍一は睨みつけて言い返した。すると店主は、
「出ていけと言っとるんだから、出ていくんや」
とまた大声を上げた。
周囲の数人の客は、龍一達と店主の方に目を向けているが、ただ呆然と眺めている感じだ。
「ああ、出ていくよ。どうもこの店は、私たちにはふさわしくない気がする。だけど、情けないな。何の不満があるのか知らないが、自分の店で醜い差別意識をさらけ出すような振る舞いをするとは。それこそ、大日本帝国の名誉に泥を塗る行為じゃないのかね」
「シナ人のくせに、でかい口ぬかすな」
「この人は日本人です」
と銭が、中国語訛りの日本語で申し訳なさそうに言った。
「なんやて、日本人のくせにシナ人の言葉を話すんか」
店主は、怒りと驚きを合わせたような口調に変わり言った。
「だから何だ、中国の言葉を使う日本人がそんなに珍しいのか。じゃあ、訊くが、この店の名前の「酒池肉林」は中国の格言だ。日本語には中国からの格言がたくさんあるし、我々が普段使う漢字も中国から貰ってきたものだ。さっき出した豆腐も、中国から来た食べ物だ。それだけ中国から文化を輸入しておきながら、どうして日本人は中国人を見下すことが言えるのか」
龍一は、店にいる全ての人々に対して訴えかけるように言い返した。
「ああ、出ていくよ、喜んで。こんな無知な者が作った料理など、たかだか味が知れてるだろうから」
龍一は、銭を引っ張り、さっと店の外に出た。もちろん、金を払う必要などないだろうと考え、お金は一銭も払わなかった。
「すまない。不愉快な思いをさせてしまって」
龍一は、銭にそう言ったが、銭はすっかり落ち込んだ様子だ。
二人は、その後、別の料理店に入った。洋食屋でビフテキなどを食べることとしたが、ほとんど会話をすることなく、言葉を交わす時は、気を遣いながら日本語を小声で使った。
龍一は銭をホテルに送った後、自宅に帰り考え込んだ。龍一も、ひどく落ち込んだ。
日本は世界恐慌の煽りを受け、景気がどんどん悪くなり、人々の心はすさんでいる。そういう時には、人は感情的になりやすく、他民族や弱者は、その情動の標的に使われやすくなるのだ。
日本人の中国人に対する侮蔑心は、以前からあった。一九世紀末に日本が清との戦争に勝利した時から始まったものだ。日露戦争でロシアに勝利し、そこで中国大陸での利権をさらに拡張する。
その後、朝鮮半島を植民地化した。自分たちの方が強く、他のアジア諸国は弱い国だという考え方が広まった。日本の方が西洋文明を採り入れ先に近代化を成し遂げたという自負もある。日本は西洋人の仲間入りをしようと「脱亜入欧」政策を推し進めた。
だが、明治時代には、岡倉天心を始め「亜細亜主義」という西欧の仲間入りをする帝国主義思想とは一線を画す思想もあった。アジアはアジアで団結し、欧米列強の帝国主義からアジア全体を守るという考えだ。そして、それはアジア諸国との対等な関係に基づく構想だ。
黄色人種の日本人がどんなに頑張ろうと、決して白人国家の仲間入りなどはできない。むしろ、都合のいいように利用されるだけなのだということが分かってないのだろうか。
アジアの中で民族同士が対立関係を深めるとそれは、いずれ欧米列強を利する結果になることは自明の理だ。
一九三一年八月
龍一は、欧州からの特派員報告を読んでいた。欧州も世界恐慌の影響を受けて、市民の生活は困窮に瀕しているとのことだ。だが、欧州の中でとりわけ状況がひどいのは、先の大戦で敗戦国となったドイツだという。ベルサイユ条約により多額の賠償金を要求され、その上世界恐慌である。賠償金の支払いは支払い能力をはるかに超えるもので、そのため政府は紙幣を際限なく発行した。そのため急激なインフレが起こり、コーヒー一杯買うにもトランクに紙幣をつめていかなければならないほどだという。世界恐慌により失業者が増大し、ドイツ国民の三人に一人は住む家さえも失う状態であるという。
そして、そんな社会が不安定な中、最近、政治の世界で躍進を遂げているのが、国家社会主義労働党(ナチス)である。龍一は、十一年前の欧州取材を思い出した。まさか、あんな党が力を伸ばすとは信じられないと思った。党首は、あのアドルフ・ヒットラーだ。ユダヤ民族排斥を唱える指導者だ。今やドイツの議会で第二の議席を誇る党にまでのし上がっているという。これは危険だ。ドイツは、敗戦後ワイマール憲法の元、民主制を敷いていたが、そんな中でこんな政党が躍進してしまうのが理解できなかった。ドイツはどうなってしまったのか。しかし、これこそが不況であえぐ世界の潮流になってしまっていると観測すべきだろうと思った。
日本もその余波を受けているのだと感じることがしばしばある。不況は日に日に深刻さを増している。身近に感じることが異常に増えてきているのだ。
「ちくしょう、何てことだ!」
作品名:失敗の歴史を総括する小説 作家名:かいかた・まさし