朝の温度
この頃の異常気象の為か、外を出歩く者は少ない。まだ真っさらな新雪に足跡を残しながら、カナタはひとり、静寂のなかを歩いていた。
第三区画、旧昼間学校廃校舎。
通信機には最低限の情報だけが表示されている。ハルカからの呼び出しは急だった。と云っても事前の約束など交わすことは先ず無いのだから、要はいつも通りである。ハルカはいつだって気まぐれだ。
慣れた道はまるで違う眺めを見せ、カナタの足どりは一層気怠げになる。それはそのまま、彼の気の進まない心境を表しているようでもあった。柔らかな襟巻きに口許をうずめ、前を睨む眸は髪よりずっと暗い黒檀色だ。
前髪に薄く積もる雪を掃ったとき、カナタは綿のように降り積む深雪のなかに一点、逆光のように強い陰影を感じた。そこへぽつり落ちていたのは、艶やかに紅い一輪の椿である。おぼろげな光を含んだ東の空が、色彩を浮かび上がらせる。あまりに強い色の対比に、却ってその紅がじわりと滲んだ。
「あいつか……」
呆れ混じりにひとりごち、拾いあげればその花弁は既にしなやかさを失い始めていた。指先に刺すような冷たさを感じる。そこには、小さな死が潜んでいるように思われた。
童話のように点々と続いた椿の道しるべのその先に、ハルカは眠っていた。
凍てつき、息をしないものと見紛うような静けさ。青く透明な光に、横たわるハルカの頬はどこまでも白く透き通っている。絹糸のような黒髪は真白い雪の上にしどけなく落ちて薄く雪花が散りばめられ、その周囲には解された椿の花弁。先程までよりも強く、紅が滲む。眼が、じん、と痛む気さえした。眩暈かも知れない。それほどまでに、途方もなく美しい光景だった。
その傍らに、そろり、膝をつく。白い首筋にかかった艶やかな黒髪を、指先でそっとはらう。その一筋ですら凍えている、とカナタは思った。
ころして、しまおうか。
そんな考えが脳裏をよぎったとき、両の掌は既に細い首の上に重ねられていた。温度は殆ど無い。指先に、血液の微弱な脈動がひびく。傍に散る椿の花弁の紅さが眼を刺す。カナタは、完成されたひとつの神性がそこに存在するのを感じた。
「カナタ、」
耳朶に響く玲瓏な声。それが形づくるものが自分の名だと理解して初めて、カナタは意識が剥離していたことに気づいた。手を離すのを、ハルカが遮る。押さえられたカナタの手はびくりと跳ねた。重ねられた掌の冷たさの所為だ。
「遅かったね。もう黄昏?」
「……朝。どういうつもりだ」
苛立ちの滲むカナタの声色に、ハルカの口許に微笑が浮かぶ。普段瑞々しい桜唇も今は少し青ざめているが、それでもその微笑みは端麗さを失わない。
「雪が綺麗だったんだもの」
からかい混じりの口調に、カナタがため息を吐く。酷いね、と悪戯っぽく笑い、カナタの手首を掴んだ。皮膚の薄い掌が、ハルカの白磁のような右頬に添えられる。
「ねぇ、この頬は、まだ温かい?」
「……ああ、」
――嘘、そう知った上で、ハルカは満足げに目を細める。くすくすという振動を掌に感じながら、カナタもまたこの莫迦みたいな行為の、ほんとうの意味を理解していた。
つめたいこども。
時折ハルカは自分を、そしてカナタを試すかのように身体を放り出した。繰り返される稚拙な行為は死、或いは終末への仄かな憬れに似て、一層、ハルカに生を焼きつける。
世界の崩壊は近い。この惑星ではもう何年も前から、欠陥品しか生まれなくなっていた。
カナタは自分の考えを振り払うかのようにハルカの手首を掴むが、ハルカは起き上がろうとしない。
「おい、太陽が昇る前に――」
「ころしてもいいよ」
言葉を微笑みで遮り、ハルカはカナタをみつめた。深い紺青の眸に落ちる、朝の光に追いやられて淡くにじむ星々。似ている、と、頭の隅でカナタは思う。
陽光に耐えられない身体。温もりも冷たさも知らないハルカ。世界から捨てられて、それとも世界を放棄して。それでも、確かめたいのだ。息をしていられること。熱を失わずにいられること。それは、いつまで、
「……勝手に死ね」
その言葉に、残念、とハルカが笑う。風が、雪片と椿の花弁を舞い上げる。光があふれる。
忌むべき朝を感じながら、ハルカの温み始めた体温への密かな安堵を自覚して、カナタはちいさくため息を吐いた。