短編『夜の糸ぐるま』 7~9
短編『夜の糸ぐるま』(7)
「歌姫の前身は・・・」
「夜の糸ぐるまの初めての披露の日に、
わざわざ駆けつけてくれたマスターから、綺麗な花束をもらいました。
長い間、あの時から私の、詞のファンだったそうです。
今はこんな私でも、かつての昔は、
詩を書くことが大好きな文学少女でした。
曲がついたのは、別れた暴力亭主のおかげかな・・・・。
売れないままの流れの歌手で、遊び人だった彼のおかげで生まれた歌が、
私の最初の曲、『夜の糸ぐるま』なの。
ままにならない男を好きになった一人の女が、群馬県内を、
男を追って、訪ねて歩くという、ちょっと切ない話なの。
まぁね。その後に私まで、似たような人生になっちゃったけどね」
「へぇ、・・・・。それじゃその歌は、別れた亭主の置き土産だ」
貞園が、意味深な目であゆみの顔を覗きこみます。
あゆみは、その視線をさらりとかわし、
額の前髪を意味もなく指でもてあそんでいました。
どうしょうかな・・・
決意がつかず、そこには軽い躊躇をただよわせています。
沈黙を続けている間あゆみの視線は、常に康平の横顔を追いかけています。
その康平がカウンターの中で背中を見せた瞬間、
あゆみが柔らかい笑顔をつくりました。
そのまま、間合いを外されたままで手持無沙汰になっている貞園と、
真正面から向き合う形を作ります・・・・
「そうよ、ねぇ。
たしかに、きっかけはすべて、別れた亭主が作ってくれました。
でも残ったものは、それだけではありません・・・」
なぜか、あゆみは鼻で笑います。
(もうひとつの、置き土産、だって?・・・)
「と、いうことは・・・・!」
グラスを磨いていた康平の手が、思わず停まります。
あゆみの片手の指は額に留まったまま前髪で遊んでいます。
もう片方の手がそれとなく動きはじめ、貞園からは見えない位置まで
進むと唇の前で一本だけ小さく指を立てたあと、
何事もなかったのように再び元の場所へその手がもとの位置に
やがて落ち着いていきます。
あゆみの目は康平に向かって(内緒です)と雄弁に語りかけています。
2人の雰囲気に違和感を感じはじめた貞園が、何か言おうとした矢先に、
店先の路地へ数人の酔っ払った足音がやってきました。
建てつけの悪いガラス戸が、言うことを聞けとばかりに、ガタゴトと
揺さぶられた後、するりと開いて、先頭に顔なじみの酔っ払いが
まず顔を見せました。
「おう。やっぱり、ここだ。
マスター。俺たちの歌姫を、独り占めにしないでくれよ。
さっきまで歌が聞こえていたのに、急に静かになっちまったんで
皆で心配をしていたところだ。
帰ったかと思ってびっくりしたぜ。
おいおい、いたぞ。こっちだ。
やっぱり、色男の処に転がり込んでいた!」
あっというまに、どやどやと、店の中が満席になってしまいました。
入りきれない酔っ払いどもが、路上に溜まって、さらに
路地にあふれかえります。
こう書いてしまうと、いかにも大人数がやって来たかのように思われますが
実数は、(そこそこに過ぎない)たったの10人程度です。
しかしそれでも、極めて狭い路地通りの呑竜マーケットでは、
人だかりとも言えるのに、充分な、人の溢れる状況を生んでしまいます。
あゆみがギターケースを片手に立ちあがりました。
「いよっ~!」という歓声に迎えられて、通路のまん中へ歌姫が進み出ます。
歌うスペースを確保してやるための後退がはじまり、酔っ払いどもが、
押しあいへしあい、じりじりと下がりながら、
囲みの枠を押し広げていきます。
「今夜は、呑んでしまいました。
あたらしく書きあげた曲を2つ。歌います。
トリの一曲には、いつもの『夜の糸ぐるま』を歌いますので
今夜は、それで堪忍して頂戴ね」
まばらな拍手を浴びた後、あゆみがギターをとりあげます。
聴衆がゴクリと喉を鳴らした後、あゆみの白い指がギターの弦を
弾きはじめます。
一曲目は、しっとりとした歌いだしの演歌です。
赤城神社に残る織り姫伝説を題材にしたという、恋も知らずに、
若くして湖底に消えていった、哀しい少女の物語です。
2曲目は、真冬に炉端で糸を紡ぐ女が、春になると戻ってくるはずの
恋人を待つ心情を、独特の高音で静かに歌いあげました。
「おう、マスター。
あゆみちゃんに一杯呑ませてやれ」
カウンターには、あっというまに1000円札が積み上がります。
気のいい酔っ払いたちは、あゆみが3曲目に歌った
『夜の糸ぐるま』のフレーズを口ずさみながら、やがて
四方八方へ散り始めます。
ほつれた前髪を掻きあげて、あゆみが貞園のとなりへ戻ってきました。
「2曲目の、待つ身の女のやるせなさを歌った部分が、
私にはジンと来た。
やっぱり、待っている女は、絵になるし歌にもなるわねぇ・・・・
当の本人は、相変らずでの四苦八苦でも」
「貞園ちゃん。あなたには、
待っていれば帰ってくる人がいるけれど、
もう、私には誰も帰ってこないわ。
哀しい時の方が女は、良い詞が書けるみたい。
夜の糸ぐるまを書きあげた時も、
実はそんな心境の時だった・・・・」
「歌姫の前身は・・・」
「夜の糸ぐるまの初めての披露の日に、
わざわざ駆けつけてくれたマスターから、綺麗な花束をもらいました。
長い間、あの時から私の、詞のファンだったそうです。
今はこんな私でも、かつての昔は、
詩を書くことが大好きな文学少女でした。
曲がついたのは、別れた暴力亭主のおかげかな・・・・。
売れないままの流れの歌手で、遊び人だった彼のおかげで生まれた歌が、
私の最初の曲、『夜の糸ぐるま』なの。
ままにならない男を好きになった一人の女が、群馬県内を、
男を追って、訪ねて歩くという、ちょっと切ない話なの。
まぁね。その後に私まで、似たような人生になっちゃったけどね」
「へぇ、・・・・。それじゃその歌は、別れた亭主の置き土産だ」
貞園が、意味深な目であゆみの顔を覗きこみます。
あゆみは、その視線をさらりとかわし、
額の前髪を意味もなく指でもてあそんでいました。
どうしょうかな・・・
決意がつかず、そこには軽い躊躇をただよわせています。
沈黙を続けている間あゆみの視線は、常に康平の横顔を追いかけています。
その康平がカウンターの中で背中を見せた瞬間、
あゆみが柔らかい笑顔をつくりました。
そのまま、間合いを外されたままで手持無沙汰になっている貞園と、
真正面から向き合う形を作ります・・・・
「そうよ、ねぇ。
たしかに、きっかけはすべて、別れた亭主が作ってくれました。
でも残ったものは、それだけではありません・・・」
なぜか、あゆみは鼻で笑います。
(もうひとつの、置き土産、だって?・・・)
「と、いうことは・・・・!」
グラスを磨いていた康平の手が、思わず停まります。
あゆみの片手の指は額に留まったまま前髪で遊んでいます。
もう片方の手がそれとなく動きはじめ、貞園からは見えない位置まで
進むと唇の前で一本だけ小さく指を立てたあと、
何事もなかったのように再び元の場所へその手がもとの位置に
やがて落ち着いていきます。
あゆみの目は康平に向かって(内緒です)と雄弁に語りかけています。
2人の雰囲気に違和感を感じはじめた貞園が、何か言おうとした矢先に、
店先の路地へ数人の酔っ払った足音がやってきました。
建てつけの悪いガラス戸が、言うことを聞けとばかりに、ガタゴトと
揺さぶられた後、するりと開いて、先頭に顔なじみの酔っ払いが
まず顔を見せました。
「おう。やっぱり、ここだ。
マスター。俺たちの歌姫を、独り占めにしないでくれよ。
さっきまで歌が聞こえていたのに、急に静かになっちまったんで
皆で心配をしていたところだ。
帰ったかと思ってびっくりしたぜ。
おいおい、いたぞ。こっちだ。
やっぱり、色男の処に転がり込んでいた!」
あっというまに、どやどやと、店の中が満席になってしまいました。
入りきれない酔っ払いどもが、路上に溜まって、さらに
路地にあふれかえります。
こう書いてしまうと、いかにも大人数がやって来たかのように思われますが
実数は、(そこそこに過ぎない)たったの10人程度です。
しかしそれでも、極めて狭い路地通りの呑竜マーケットでは、
人だかりとも言えるのに、充分な、人の溢れる状況を生んでしまいます。
あゆみがギターケースを片手に立ちあがりました。
「いよっ~!」という歓声に迎えられて、通路のまん中へ歌姫が進み出ます。
歌うスペースを確保してやるための後退がはじまり、酔っ払いどもが、
押しあいへしあい、じりじりと下がりながら、
囲みの枠を押し広げていきます。
「今夜は、呑んでしまいました。
あたらしく書きあげた曲を2つ。歌います。
トリの一曲には、いつもの『夜の糸ぐるま』を歌いますので
今夜は、それで堪忍して頂戴ね」
まばらな拍手を浴びた後、あゆみがギターをとりあげます。
聴衆がゴクリと喉を鳴らした後、あゆみの白い指がギターの弦を
弾きはじめます。
一曲目は、しっとりとした歌いだしの演歌です。
赤城神社に残る織り姫伝説を題材にしたという、恋も知らずに、
若くして湖底に消えていった、哀しい少女の物語です。
2曲目は、真冬に炉端で糸を紡ぐ女が、春になると戻ってくるはずの
恋人を待つ心情を、独特の高音で静かに歌いあげました。
「おう、マスター。
あゆみちゃんに一杯呑ませてやれ」
カウンターには、あっというまに1000円札が積み上がります。
気のいい酔っ払いたちは、あゆみが3曲目に歌った
『夜の糸ぐるま』のフレーズを口ずさみながら、やがて
四方八方へ散り始めます。
ほつれた前髪を掻きあげて、あゆみが貞園のとなりへ戻ってきました。
「2曲目の、待つ身の女のやるせなさを歌った部分が、
私にはジンと来た。
やっぱり、待っている女は、絵になるし歌にもなるわねぇ・・・・
当の本人は、相変らずでの四苦八苦でも」
「貞園ちゃん。あなたには、
待っていれば帰ってくる人がいるけれど、
もう、私には誰も帰ってこないわ。
哀しい時の方が女は、良い詞が書けるみたい。
夜の糸ぐるまを書きあげた時も、
実はそんな心境の時だった・・・・」
作品名:短編『夜の糸ぐるま』 7~9 作家名:落合順平