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佐崎 三郎
佐崎 三郎
novelistID. 27916
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砂を抱く少年

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『砂を抱く少年』

人間の体は骨と肉と皮である。桃色の肉の中に白い骨。その骨が見えたとき、小学6年の少年Sは気味が悪い気もしたが、なぜだか新しい自分を見た気持ちにもなって、嬉しくもあった。それは体育の時間だった。鉄棒の並ぶ前の砂場を使い、走り高跳びの授業だった。運動神経は悪くないが、この高跳びは苦手であり、悔しい気持ちを胸に秘め、夢中で跳んでいた。何度目かの跳躍の時、態勢を崩してしまい、向こう脛、弁慶の泣き所を、鉄棒の鉄柱にぶつけてしまったのだ。

砂の上で引っくり返り、声を飲みこみ痛みを堪えた。血が傷の下を滴り、白い半ズボンも、手も太股も足も、砂に塗されて、横になった。同級生二人に持ち上がられ、保健室へと運ばれた。保健の先生は新任のKという女性である。朝礼での挨拶で初めて見たとき、美人だなと彼は思った。細身の体に、髪は肩までのストレートで、おでこを見せて分けてあり、色白で切れ長の目、薄い唇に、西洋の女性のような鋭い鼻梁を持っていた。声はか細く、余り物を語らない、清楚な雰囲気であった。一部の男の子の間ではもう噂になっていた。「いつかパンツを見てやろう」と。彼はくだらないと思いながら、新学期から保健委員として毎週土曜日は先生と一緒の時間を過ごしていた。

保健室に運ばれた彼は、まず砂を払われ、靴を脱いで、靴下を脱いで、ベッドの端に座ったのだった。怪我をした右足をシーツの上に載せ、先生が見やすい態勢に動いた。血のりと砂粒のついたままの傷は、いままでの痺れから痛みに変わろうとしていた。先生は消毒液を含ませた脱脂綿で静かに彼の脛を拭き始めた。
「どうしたの」
「ぶつけました」
「どこへ」
「たぶん、鉄の柱。鉄棒の」
「どうして」
「失敗した。跳ぶのを」
「走り高跳び」
「はい、そうです」
「痛い」
「はい、痛い」
「そうよね」
少年は先生の指先を見つめていた。自分の汚いものを拭きとる姿を。スカートの先から膝頭が出ていた。青く薄く細い血管が見えた。毛穴も微かに見えた。傷がだんだん痛くなった。そして偶然気付いたのだが、先生には左側だけ笑窪があった。
「ほら、見てみて」
脱脂綿で拭いとられたその汚れた部分を、他人ごとのように感じながら視線をずらしてみると、一センチ四方の傷口が露わになった。砂粒と黒い血のりに覆われていたものだったものが、まるで霧の流れた湖のように青空のもと本来の姿を見せるのだった。それは火山の火口の穴であり、その中に白い底があった。
「これは、ホネですか」
「骨、ね」
今まで骨を見たこともないし、他人に見られたこともない。人生の恥部の一部を、こんな機会に遭遇したことに、彼は正直驚いた。そして先生であることよりも女であることに動揺した。骨を前に二人は共通の秘密の味を知ったかのように緊張した。
「先生、これ」
「大丈夫、肉が削がれて、骨が出ただけ」
「骨が、骨が」
少年は演技をした。先生をこちらに向かせるために。しかし、冷静に扱われていることを感じ、諦めかけた。新しい消毒液が染み込んだ脱脂綿が穴の開いた脛を這う。江戸時代からこうなのだ
「こうすれば、バイ菌は入らないから。肉は飛び散ったようね。でも大丈夫」
細い十本の指が彼の膝下の周りで蠢いている。しなやかな指が肌に触れるけれど、痛みのなかでは蟻が這いまわるような感覚で、こそばゆいまでいかないのが歯がゆいのであった。

痙攣を起こしそうになることを予測していたのかのように、先生はいつのまにかふくらはぎをさり気なくマッサージしていた。少年の下半身が幼い脳の意思を裏切るかのように、その指の動きに快いものが伝わり、傷口の痛みと揉みほぐされる気持ちよさが混ざり合い、どうすればこの時間が続くのかと考えた。
「肉は砂の中にあるのですか」
「多分、あの鉄棒の辺りにあるでしょうね」
「それは、どうなりますか」
「蟻の食料とか、もっと小さな生き物の栄養になるのかな」
「ぼくの肉が餌ですか」
「いいえ、そうではないわ。土の還るのよ、亡くなった人みたいに」

決して先生は少年の目を見なかった。そして彼は折り曲げられた脚の、肌に血管が透き通り、毛穴から極細の毛が生え、白いシャツの胸元の隙間の闇に目はふらふらと彷徨いつつ入って行った。
「では、これで大丈夫」
脱脂綿を傷口に押し当てたまま、折りたたまれたガーゼをあてがわれ、テープで十字に貼られた。体育の時間はまだ続いていた。
「戻る?」
「はい、戻ります」
左手で左耳に髪を引っ掻け、立ちあがると、棚からファイルを取りだしボールペンで記録を取っていた。先生の薄い水色のスカートの皺を見ながら、アイロンをかけてあげたい、ずっとしゃがんでいたのは自分のせいなのだから、と思った。そのとき、あっと彼は声がでた。
「今週の委員会で、話し合うことありますか」
「別にないかな。いつも通りでいいと思いますよ」
ペンを動かす先生の、開襟シャツのボタンとボタンの隙間から地肌が見えた。蒸し暑い部屋の中で、汗をかいている。熱くなっているのだろうかと彼は思った。
「先生、結婚しているんですか」
「なに、突然に。してません。なにその目は」
「独身ですか」
「そうよ。何きいてるの。ほら、早く戻りなさい」
「はい。ありがとうございました」

少年は砂場のところに戻った。みんなは何事もなかったかのように、グランドを走り周り授業を続けている。彼は黙って鉄棒の所へ行き、背中で支えながら眺めていた。走り高跳びの器具はその場に残され、忘れ去られたようにただそこにあった。自分の肉を削った鉄柱の所へ行き、お前のせいでと思いながら、飛び散った肉を探した。ある訳はないか、凭れたままお尻を滑らし、しゃがみこんでみた。地面は硬く、傷口はひりひりとしてその存在を主張し、独立宣言していた。だから、彼は穴の開いた足を伸ばして、どこへでも行けと思った。もう他人の足に化していた。

「ここで、血を流し、肉は削られたのか」
砂に目をやれば、砂は物悲しい戦場のあとのように、乱れ、荒れて、少年は太平洋の海原を見つめている釣り人のように途方に暮れていた。そして流れた血で先生の名前を砂に書いている姿を想像した。頭の現実では、なんでもやればできるものだな。そう思った。

翌年、先生は転任していった。別れの挨拶もなく消えていった。一部の噂では結婚するので辞めたという。ぼくのせいかな、と少年は妄想しながらメッセージをあの砂場で砂に書いた。人知れずに。「ありがとう」と。一方、一部の同級生からパンツの話が出た。見た人の話では、黒だったということだった。それは予想外だったので、逆にリアルに受け止め、訳もなく落ち込んでいた。先生の肌を思い出しながら砂場に身を投げて、砂を抱いてみたが、先生の裸姿はみごとに跡かたもなく滑り落ち、少年はまた傷を負ったのだった。                                                 (了)
作品名:砂を抱く少年 作家名:佐崎 三郎