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王子の犬

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歳若い王子は、大きな犬を一匹飼っている。



「失礼します」
 そう生真面目に軽く会釈して、王子の犬が入室してくる。王子は酒杯の中身をあおりながら、長椅子から両脚を投げ出した寝巻き姿でそれを出迎える。
 だらしない主君の格好を目にしても、犬は何も言わなかった。ただ物問いたげに、燭台の向こうで片眉をわずかに上げただけだった。
「お召しと伺いましたが」
「女と踊っていたな」
 単刀直入に切り出しても犬は表情を変えない。それどころか平然と王子の目を見返してくる。
「彼女は今夜の夜会の主賓です。申し出をお断りするわけには参りません」
「あの女と楽しそうに踊っていた」
「それが騎士としての礼儀です」
 犬は憎らしいほど予想通りのことしか言わない。
「それにお言葉ながら、殿下も何人もの女性と踊っておられた」
 確かにそうだった。他国の王女、貴族の令嬢、有力者の娘。次から次へと現れるきらびやかで無個性な少女たち。
 王子にとって夜会とは、外交と称し何時間も立ち通しで彼女たちのダンスの相手をすることに他ならない。自分が継承権から遠い立場である以上、いずれ近い将来、彼女たちの中の誰かと娶わせられるだろうこともわかっている。わかっているのだ。
「そうだな、確かにそうだ。おかげでさっきから足が痛い」
「私はあの方以外とは踊りませんでした」
「だが楽しそうだった」
 どう考えても理不尽な言いがかりだ。王子自身がこれを言いがかりだと知っている。にも関わらず犬は何も言わない。ただそこに立ち、王子のことをじっと見つめている。
「そんな目で見るのはやめろ」
「おそれながら、殿下は少々ご酒が過ぎるのではないかと」
「踊りすぎで足が痛いんだ。少しぐらい飲まなければやってられるか」
 見ろ、と犬に向けて足を掲げる。
 素足だった。
 犬は眉間に皺を刻んだままそれを見下ろす。底光りしたその目には当惑と疑問、さらにその奥にわずかな暗い光があった。なるべく主君らしく聞こえるよう、王子は静かな声で命令する。
「確かめろ」
「……はい」
 犬は命令通り王子の足元にひざまずくと、大きな掌で王子の足を包んだ。
「失礼します」
 犬の冷えた指先が甲をたどる。
 苦労を知らない王子のまっすぐな足の指。扁平に近い土踏まず。かかとの筋張った腱。それらをひとつひとつ、犬は儀式めいた手つきで確かめる。間近に顔を近づけ、少年の素足を仔細に検分する犬に、王子は横柄に命じた。
「舐めろ」
「はい」
 犬はまったく命令に抵抗する素振りを見せず、さらに身をかがめた。
 爪のひとつひとつに、いつものように犬はそっとくちづける。
 両手で足全体を撫でさする。くるぶしの骨を軽くついばむ。そして口を開け、王子の足の指をそこに迎え入れた。
 犬の口の中はなまぬるく濡れている。
 舌は生き物のように蠢きながら、皮膚の上を滑っていく。
 ほうとちいさく溜息をもらし、王子は背筋をのぼってくる悪寒にも似た感覚を堪能した。いつものように。
 体格も膂力も明らかに自分よりも優れた男が、自分の足元にぬかずいて舌を使っているのは、ひどく倒錯的な光景だった。
 これはわたしの犬だと王子は思う。
 わたしの犬。わたしだけの犬。柔らかな粘膜が爪先を吸い上げる。宮廷中でも堅物で知られる無骨な騎士は、わたしと二人きりのときだけ犬となる。
 湿って熱い舌が指と指のはざままでも這っていく。いつものように。かたい骨の継ぎ目に時折歯を立てる。いつものように。唇で舌で王子の足を愛でる犬は熱に浮かされた、まるで祈るような目をしていてひどく痛ましく、そしてひどく滑稽だ。普段いかめしい表情で胸をそらし、部下に横柄に命令を下すこの男しか知らない人々が、これを見たらどんな顔をするだろうか。
 傍らの燭台の明かりがやわらかく揺れている。絹張りの長椅子も冷たい石の壁も、空になった杯も、椅子から見下ろす犬の額や鼻筋をも、すべて黄金のまだら模様に染めている。光のいたずらが作り出すどこか物悲しい光景にもまったく気づかぬまま、犬はいつものように王子の足を熱心に食んでいた。
 犬の舌は決して、王子の脚より上に上がってはこない。
 ――いつものように。
「お前は変態で、男色家で、わたしの足が好きな最低の犬だ」
「承知しております」
「犬の分際で、また女と踊れるなどと思うなよ」
「以後気をつけましょう」
 いくら憎まれ口を叩いても犬は全く表情を変えない。けれどもこうしている間、犬が本当は興奮していることも、常から彼が自分を欲していることも、王子はちゃんと知っていた。
 この男がわたしを抱くことは、この先決してないということも。
 こいつは私の犬だ。
 そして賢く忠実な犬は、決して主人を組み敷いたりはしない。
 不意に理不尽な思いにかられて、犬の鼻面を蹴飛ばしたくなる。
 何故抱かない。抱きたいならばわたしを今すぐ汚してかき乱して蹂躙してみるがいいと、ひどく詰って罵ってやりたい。だがそうして理性をかなぐり捨てようとする衝動を、それでも矜持がもどかしく邪魔をするのだ。
 言ってやれたらどんなにいいだろう。
 ――お前は犬のくせに、主のわたしの心が何故わからない?



 歳若い王子は、犬が犬でなくなる瞬間を、本当はずっと待っている。
作品名:王子の犬 作家名:MYM