京都七景【第四章】
【第四章 東山安井に立つ(4)】
「いやあ、今夜はまいったぜ。台風が二つともいなくなるなんて予想だにしていなかったからな。だがそれ以上に野上と露野にはまいりました。送り火は無理だと思って、毛布にくるまり、部屋で横になりかけたところへ、野上と露野が来てるって電話だろう、まあ、驚いたのなんのって。いつ誘っても中々来ない頑固な二人が、そろいもそろってこんな日に来るとは、いったいどうした風の吹きまわしだい?いや、いいのか。台風が吹きまわしてくれたからこそ、頑固な二人がここに吹き溜まったってわけかな。なるほど筋は通っている。ははははは」と堀井は入ってくるなり、よく分からない冗談を言って妙に受けている。
「何だか来たのがいけないみたいな口ぶりだな。呼んだのはおまえたちなんだぜ。おれたちは約束だと思うから無理して来たのに」
「うむ。そのことはすまないと思っている。だが、おれたちもここまで天気が回復するとは思っていなかったんだ、悪く思わないでくれ。まあ、お詫びと言っちゃ何だが、酒とつまみを各種取り揃えて持ってきたから、これで機嫌を直してくれ」
そういうと、堀井と大山は持ってきた酒とつまみを床に広げだした。
ビールのジャイアント瓶(大瓶三本分)三本、つまり大瓶九本分
ウイスキー二本(サントリーオールドとヴァランタイン、ともに家から許可を得ずに持ち出したこと請け合いである)
チーズかまぼこのスティック数本にサラミソーセージ二本
ポテトチップスの大袋二つ
ナッツ缶の大一つ
紅白のかまぼこ各一
柿の種大袋一つ
以上である。
「よくこんなに持ってきたな。重かっただろ」
「いやあ、なんだか非常時に炊き出しするみたいでわくわくしてな、堀井と二人で歩きながら、ついスキップしそうになって困ったくらいだ」
「おい、そろそろ時間じゃないのか」と露野が言った。
「おお、そうか、今何時だい」と神岡。
「八時二十七分をまわったところだ」とわたし。
「なら、電気を消そうぜ、電気を。神岡たのむ」
「よし、わかった」
神岡が電気を消すと、一瞬、内も外も真っ暗になった。薄暗い空に真っ黒な大文字山の輪郭が次第、次第に姿を現す。大文字山はまるであつらえたかのように窓の真正面にあって、やや斜め横向きにその整った姿を見せている。これ以上望めないほどの部屋からの眺めである。六階という高さのせいか、近くの外灯の明かりはここまで届かず、遠くのあかりも程よくオレンジ色にうすれて、大文字の火が輝くのを待っている。
「おい、火がついたようだぞ」露野が小声で早口に言った。わたしたちは息を呑んで見守った。
最初は、小学生の漢字練習帳に引かれた点線のような「大」の字が浮かんで見えた。ちょっと弱弱しい。意外の感に打たれてわたしたちは顔を見合わせたが、またすぐに食い入るように見つめた。小さかった点は徐々に火勢を増して隣の点を飲み込み、やがて大文字(おおもじ)の『大文字』に育ち上がり、時折、台風の残り風にあおられ、太文字(ふともじ)の大文字が左右に大きく揺れ動く。まるで『大文字』が生きて身をよじっているようにさえ見える。
「すごいな」
「ああ、すごい。こんな『大文字』、見たことがない」
「俺たち、ついてるのかもしれないな」
「うん、絶対についてる、これだけの悪条件の中で『大文字』が見られたんだから」
「感謝しなくちゃな」
「ああ、そうだな。でも何に感謝するんだ」
「そりゃあ、言い出した、この堀井様にだろう」
「ばか言え、あきらめて寝かけたくせに」
「それなら、最後まであきらめなかった野上様に軍配を上げるべきだと思うよ」
「いや、俺はつべこべ言わずにちゃんと来ていた露野がえらいと思う」
「いや、おれは別にそんなつもりじゃなかったがな」
「じゃあ、よけてくれた二つの台風に感謝しちゃどうだい」
「うーむ、それも微妙だな。だいたい台風が原因を作ったんだから」
「じゃあ、何に感謝したらいいんだ」
「やはり、ここは、俺たちをここに集めてくれた、時の運と『大文字の火』に感謝したらいいんじゃないか」
「おお、そうだな。やはり大山は冷静だ。実にいいことを言う。どうだい、みんな、そういうことにしちゃ」
「うむ、いい提案だ。賛成する」
「おれも」
「右に同じ」
「おれも入れといてくれ」
「じゃ、そういうことにして、いよいよ飲み始めようじゃないか。のどがかわいてこれ以上は酒を我慢できそうにない」
「右に同じ」
「おう、それじゃ、始めるとしようか。神岡、電気を頼む」
「よし」神岡が電気のスイッチをつけようと立ち上がった。
「あ、あ、ちょっと、ちょっと待ってくれ」大山が大急ぎでそれを制した。
「どうかしたのか?」
「ひとつ、提案があるんだが」
「提案?」
「ああ、みんなも同じだと思うが、今夜の送り火には何かしら感じるものがあるだろ」
「うん、確かにある」
「なるほどそうだな」
「そんな気もする」
「毎日、大学で顔を合わせている俺たちだって五人が全員、同一時刻同一場所に、そろうのは、そう簡単にはいかない。まして、送り火の夜にこの悪条件下で五人が同一時刻同一場所にそろったんだ。これはもう、奇跡と言っていいだろう。もちろん、そう考えないこともできる。一度できたんだから、またこれからもできるだろうと。だが、考えてみてくれ。だいたい俺たちが、この三年間に全員そろって会えたのは何回だと思う?実は一度もないんだ。それぞれ別個に会って互いにそこにいない友達の情報を交換していたから、一緒にいたような気がしているだけさ。だからおれは今夜のこの奇跡的な出会いを意味あるものにしたいと思う。俺たちが集まって二度と再び『大文字』の夜にそろうことがなくても、そろったことを思い出して、そろった意味をかみしめて生きていくことができたらどんなに心強いだろうと思うからだ。哲学科の露野には、あるいは分かっていると思うが、もともと人間の人生に決まった目的はない。もし人生の目的が決まっていたら、人生はおれたちの自由にはならない。おれたちは決まった通りに人生を終わるしかない。だが、人間には自分の目的を持つ自由がある。その自由があるのは決まった目的を持っていないことからきている。では目的はどうすれば見つかるのか。それは、自分にとって意味あるものを見つけ出す(あるいは追い求める)こと以外にはない。おれは、さっきまでこんなことを言おうなんて夢にも思わなかった。けれども、この悪条件下に、このすばらしい送り火を目の当たりにできるおれたちの幸運を思って、この集まりを意味あるものにしたくなった。だから、おれは次のことを提案する。
おれたちの心の中に、今なお燻(くすぶ)りつづけている迷いや後悔の念があれば一人ずつ打ち明けて、その思いの一つ一つをこの『大文字』の火にのせて成仏させてやってはどうだろうか。そうすれば、その思いも浮かばれるに違いないし、それと同時に、おれたちの心もその思いから解き放たれ、また再び新たな気持ちで自分の人生に向きあえるのじゃないだろうか。どうだい、ひとつやってみないか?」
「なんだか面白そうだな」
「ああ、わくわくする」
「今夜の記念にやってみるか」