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酒場の女

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『酒場の女』

 フリーのカメラマン秋吉は若いとき世界中を旅した。その時のことだが、ある年の夏、ヨーロッパを旅した。

イタリアの中部にある小さな街に着いた。その街は山の頂にあった。山は木が一本もなくはげ山同然で、街は石でできている。
街に入ると、まるで中世に迷い込んだような錯覚を覚える。細い路地が迷路のように張り巡らされていて、高い壁に囲まれている。そのせいで、日差しが射さず暗い。

秋山は気ままに道を歩いた。が、歩いても、歩いても、あまり人影が見当たらず、まるで街全体が死んでいるように思えた。が、突然、どこからもなく教会の鐘が鳴り出した。音を頼りに歩いた。行き着いたところは街の中央にある広場だった。年老いた男女が何をするでもなく、ただだべっていた。細い路地とは打って変わって明るい。広場には教会もある。教会は街の社交場だった。

 秋山はその町に滞在した。
 数日経ったある日、その日はあいにくと雨だった。街に一軒だけバーに入った。
東洋人らしきママが一人で店を切り盛りしていた。
秋吉が入ると少し憂いを含んだ笑みで迎えた。柔和な表情を浮かべた彼女を見たなら、きっと誰もが幸福な人生を歩んできたと思うだろう。彼もそう思った。
 店を見回したが、客は誰もいない。カウンターに座り、ママと向かいあった。
 ビールを注文すると、ママは大きなグラスにビールを注ぎ、彼の前に置いた。
「私も飲むわ」と言って自分でグラスにビールを注ぎ飲み始めた。
「雨の日は嫌ね。ところで、あなたは日本から来たの?」
彼がうなずくと、
「そう、懐かしいわ。私もずっと前、日本に住んでいた。そんなふうに見えない? でも純粋の日本人なの。もう日本を離れて十五年経つわ。そんなふうに見えない?」と突然大笑いした。彼女の大げさな笑い方は、壁に狂人の振る舞いような影を落とした。
「驚いた? ごめんなさい。今日の私はどうかしている? でも、いいでしょ? 今夜はもう誰も来ないわ。店じまいをして、一緒に飲みましょう。いい?」
「妙な話よね。あなたと知り合って間もないのに、なぜか話したくなるなんて……。こんなオバサンの話を聞いてくれる?」
 雨はひどい。店の窓ガラスを狂人のごとく叩く。
「かまいませんよ」
「ずいぶん前から私は独りぼっちなの。いつか、こうなることは分かっていたはずなのに。とても寂しいの。その寂しさに押し潰れそうになることもあるわ。その度に、いつか良い人に出会えたならと思っていたけど。儚い夢ね。いまだに独りぼっちなの。身寄りのない自分が辛くて、心は壊れそうになることもあるわ。そんなときはこんなふうに酔うの。結婚はしないと決めていたわけではなかったのに、いまだに独りぼっちよ……」
 彼女はまた自分のグラスにビールを注いだ。そして、壁に映る自分の影に向かって話すように喋り続けた。
「長く一人の男に心を寄せた。この町で偶然出会った。だけど友達以上の関係になれなかった。いつか結ばれる。そんな夢を抱いていたのに、その彼が突然、前の彼女のところ行ってしまった。ずいぶん前のこと。あれから縁がないの」と笑った。
 仰々しい笑いはまるで演じているかのようにみえた。
「彼は絵描だった?」
「どうして、そう思うの?」
「入口のところに飾られている絵、彼の絵でしょ?」
ママはうなずいた。

 時計の針は十一時を回った。
 秋山は店を出た。
 雨は止んでいた。
 満天の星が輝いていた。
 歩いているとき、ふとゴッホの【星降る夜】という絵を思い出した。
 ゴッホは「ただ星を見ていると、僕は訳もなく夢想するのだ。なぜ蒼穹に光り輝くあの点が、フランスの地図の黒い点より近づき難いのだろうか、僕はそう思う。汽車に乗って、どこかへ行けるはずだ。死んでしまえば、汽車に乗れないのと同様に生きている限りは星には行けない」といった。

 誰も孤独なのだ。彼女も、ゴッホも、そして秋山自身も。
秋山は不慮の事故で恋人を亡くして、その心の傷をいやすために、あてのない旅に出たのだ。しかし、その話はママに言わなかった。


作品名:酒場の女 作家名:楡井英夫