音を聴く
ー音を聞くー
いつからここにいただろうか。
温もりも冷たさも感じられないほど長い時間、この銀世界を駆け回る。
誰かが来たらやっと時間を意識するから、僕が退屈する時間は意外と少ない。
「ねぇ、おじさんは迷子なの?」
男は驚きに目を見開いて、それから何かを悟るように目を閉じるとこちらに優しく笑いかけた。
「そうなんだ、仕切りのない迷路は私には少し難しかったみたいでね。君はゴールを知っているかな?」
「迷路が広すぎて子供にはまだ探検しつくせないんだ。」
わざとらしく肩をすくめて応える。
彼は此処にいままで迷い込んで来た人とは何かが違うのかもしれない。こんなに落ち着いて話せるだなんて。
「子供の探検はいつまでも終わらないものだからな。」
「何しに行くところだったのさ?」
「いや、目的は達成されてるんだ。私は君に会いに来たんだからね。」
今度は僕が驚く番だった。なんだ、これは面白い。
「会いに来た人なんて初めてだよ。僕に何か用事でも?」
「一つ聞きたいことがあるんだ。それよりもう少しこちらへ来てくれないか。耳の調子が悪くてね、こんなに静かなのに君の
声が聞き取りにくいんだ。」
「耳のせいじゃなくて、此処が音を嫌うからだと思うよ。いや、食べちゃいたいくらい好きなのかな。」
僕らは冷たい雪の上に並んで座り込んだ。
見えるものなんて変わらない白だけだというのに、隣の彼はひどく楽しそうに前を見つめていた。
「聞きたいことって何?」
「君はここで退屈ではないのか。逃げ出したくはならないのかい?それが聞きたいんだ。」
なんだ、そんなことか。
呆れてため息をついた。
「ここはとても賑やかなんだ、飽きる暇がないくらいに。」
「こんなに静なのに?」
予想通りの言葉にクスクスと笑った。
「食べちゃうって言ったでしょ?」
「生き物がいるようには見えないのだが。」
「生き物とは言わないと思うよ。」
「む、…降参するよ、さっぱりだ。」
「仕方ないなぁ。そこに寝転んで雪の音を聞いてみなよ。」
彼は従順に冷たい雪の中に自分の耳を押し付けた。
二人とも黙り込む。久々の静寂だ。
始めは戸惑ったような表情だったのが、突然驚愕に代わり飛び起きた。
「今の悲鳴は?誰かほかにいるのか!?」
「随分と浅いところの音を聞いたんだね。」
「浅いところの音?」
「音を食べているのはこの雪だもの。食べた音を腹の中に溜め込んでるのさ。」
もっと深いところの音を聞いてご覧よ。
僕はひどく愉快におもいながら、彼は今だ信じられないという顔をしながら、同じ恰好をした。
一番目に聞こえてくるのは、やはり悲鳴だ。死に怯え引き攣る悲鳴。足音だって聞こえてくる。複数の足音が走ったり、歩いたり、乱雑に伝わる。笑いあう声だってある。風の音だって、葉が擦れる音だって聞こえるんだ。閉じ込められた命の音がする。
そのうちそれは聞こえなくなる。そうすれば、僕が一番好きな音が近づいてくる。
波の音。
時を忘れて、瞼の裏の暗闇で心地良く胎に抱かれる夢を見る。
瞳を開いて隣を優しくゆすりながら語りかけた。
「聞こえたかい?」
返事はない。
それでもなお言葉を紡ぐ。
「迷路はちゃんと解けたみたいだね。」
「久しぶりに楽しかったのに。」
「君も他の人と変わらなかったね。」
「僕はまたダメだったから、今度会い来てくれた時は答えを教えてよ。」
もうこの場に留まる意味はない。
永久の銀世界を駆け廻る、子供の好奇心はなくならない。
骸は埋もれてしまうだろう。白がまた、静かに積み上がる