逃げたペルシャ猫
結城賢一は三十代で大手建設会社の課長である。札幌に赴任にして三年が経つ。順調にいけば、来年本社に戻り部長である。
賢一はまた名うてのプレイボーイである。二十代、三十代の頃なら、無条件に女の方からすり寄ってきた。それほど好青年であったのである。美男子で、資産家の息子で、明るかった。だが、四十の坂を下りようとしているとしている現在、女を引きつける為にほんの少しの餌をちらつけかせる必要があった。なぜなら、今では、家は傾き、豚と見紛うくらいに太ってしまったからである。それでも自分から先に惚れることはないと自負している。
「ベッドに誘うのは女の方さ」というのが、彼の自慢であった。
賢一はある人にススキノのクラブに誘われた。
隣についた二十三になるホステスの美穂を気に入った。目鼻がはっきりしていて、どことなく冷たい感じがするものの一級の美人であった。その娘を目当てに一週間に一回程度通い、三か月が過ぎた頃になると、店に入るなり、当たり前のように美穂が隣に座った。
誇り高き賢一は、自分から話の種を蒔くようなことはしなかったし、ホステスのご機嫌をうかがうためにあれこれと話をする真似もしなかった。一方、美穂は美穂で、まだホステスになったばかりで、思うように話題を作れなかった。そのせいで、沈黙が何分も続いたことがしばしばあった。
ある夜、猫の話になった。
水商売の女はみんな、ペットを飼っていると聞いたことあったので、冗談半分に賢一は「一人暮らしは寂しいだろ? 猫を買ってやろうか?」と言った。
すると美穂は「猫は嫌いなの」と素っ気なく答えた。
せっかく話が盛り上がったところである。気まずい沈黙になった。が、ちょうどピアノの弾きあたりが始まった。
賢一はグラスを傾けながら少し考えた。猫が嫌いなのは、ひょっとしたら気まぐれな性格ないなのかもしれない。だが、女も猫も同じように気まぐれな生き物ではないか。美穂は自分と同じような気まぐれな生き物を嫌っているだけだ。……そう考えると賢一の顔に自然と笑みがこぼれてきた。
美穂は「何がおかしいの?」と子猫が驚いたような顔した。
「いや、何でもない……」と言って手にしたグラスで喉を潤した。
「昔、ペルシャ猫を飼っていてね。とてもおとなしい猫だった。撫ぜてやると、いつしか眠りこけている。ときおり面白半分にその髭を引っ張ると慌てて起きて引っ掻く。そうなると、当分、その怒りは収まらない。その日もそうだった。猫を怒らせてしまった。ちょうと、二階の窓の開けっ放したままにしておいたら、猫はその窓から外に出て消えてしまった」
「きっと猫は焼き餅を焼いたのよ。あなたが毎晩、違った女を連れてくるから……」
「おい、一度も女を自分の部屋に連れ込んだなんて話はしたことがないぞ」
「そうなの? プレイボーイさん。ところで、私もいただいていいかしら?」と首を傾げた。
賢一はOKという意味の頷きをした。すると美穂はボーイを呼び、ウーロン茶を頼んだ。茶はすぐに運ばれた。茶を一杯飲むと話を続けた。
「うちのおばあちゃんも猫が好きで飼っていた。雑種だけど。私も猫のようにかわいがってよ」と言って微笑した。
美穂がやっと自然な笑みを見せたので、憲一は安堵し、同時にしめたとも思った。
猫は犬のように人に媚びることはない。いや、多くの場合、人が猫のご機嫌をうかがうのだ。それと同じようなことを女にしなくてはならない。賢一は脈がありと早合点し積極的にアプローチした。多くの贈り物に、美味しいご馳走……
美穂と出会ってから五ヵ月のことである。そろそろ口説いてもいいと思い、酔ったふりをして、ゆっくりと美穂の腰に手を回した。そして、その手は乳房に軽く触れた。柔らかな何とも言えない心地好い感触が伝わってきた。美穂は拒絶しなかった。甘えるような声で美穂の耳元で囁いた。
「今度、君とゆっくり話したいな」
美穂はうつむいた。少し酔っていたのかもしれない。しばらくして、
「いいわ……でも、約束しても無駄かも……」と答えた。
「なぜ?」
「だって、私は……」
「私は?」
「私はあなたの部屋から逃げたペルシャ猫ですもの。自由気ままに生きるの。それにオジサンは趣味じゃないし」と言って大笑いした。
賢一は一本取られたという顔をした。