竜
その夜。
黒竜が訪れたその瞬間から、世界は繁栄を約束された。
その存在は大地に何らかの働きかけをし、木々は急速に育ち、花の咲く間がないほどに実は成りつづけた。命が飢えに怯えることのない、永遠の豊穣が訪れたのだ。
欲深い人は、深い眠りについた竜に豊穣の対価を寄越した。
それは<誓約の鎖>による戒めであり、誓約を保つための歌姫だった。
楽園は、繁栄は、続く、続く、竜の眠りが覚めるまで。
「これが僕たちのお話だって」
今はお伽話となってしまった真相を語る、少年は傍らの黒竜へと囁いた。
呼び掛けに答えて黒竜が、長い首に巻かれている鎖の存在を示すように大きく身を震わせた。
「その鎖はそんなに邪魔なの?」
不満そうな唸り声をあげる喉を、闇の中で探るように手を伸ばし、優しく撫でてやった。
此処は竜がやって来たときに掘ったとても深い縦穴だ。
眠りを妨げられないようにと掘られたそれは、水脈にまでたっし、底には小さな泉が出来ている。木々にほどよく遮られた日光も入ってきたはずだが、人々が竜が飛び出さないようにと蓋をしてしまったので、中はかろうじて輪郭が解る程度にしか光はない。
穴に反響して複数の足音が聞こえた。
竜はゆっくりと身体を丸めた。
蓋が開かれる。
「食料だ」
怯えた声がそれだけ言って、袋が放り込まれるとまたすぐ閉じられた。
足音が去るのを待ってから、少年は大きな声で笑い出す。
竜も今度は愉快そうに一声鳴いて、その小さな胸に頭を軽くこすりつけた。
「ちょっと待って、転んじゃうよ。でもおもしろかったね、怯えちゃってさ。君はもう目覚めてるのに、あんなんだから気づけないのさ」
手探りで投げ入れられた袋を見つけて、中を触るとどうやら三つほど丸い実が入っている。
「前に聞いたのだと、林檎ってやつかなぁ?」
座り込んで考えていると、しつこく裾が引かれてまた笑ってしまった。
「そんなにお腹すいてた?待てってば、洗ってから…ついでに冷やしておこうか」
湧き出る水は清らかでいつも冷たく心地いい。
林檎をそのなかに置くと、宥めるために竜の顔を自分に向けさせて言う。
「今日はどんな歌がいいかな」
どこか寂しそうな鳴き声は聞かなかったことして、声を明るく続けた。
「楽しそうなのにしようか」
待つのが楽しくなるくらいにね。
あとは暗く狭い穴の中に、歌声が響くだけだった。
夢での役割を終え、千年もの深い眠りから覚めてしまえば、後はまどろむことしかできない。
戒めに驚くこともない。どこにいようとも欲が深いモノは存在するから、別に初めてのことでもなかった。
誓約の鎖とは、たてられた誓いを守りつづけるかぎり何者にも、もちろん竜である自分にも破ることのできない古の魔具なのだが、それさえも彼の歌を聞いて過ごせる幸せに思えたくらいだ。
傍観者であり破壊者である自分は、もういくつもの世界を旅して、花を送ってきた。この世界も引き金を引いてしまえば、同じ道をたどる。
いや、本当はすでに引かれていなければならない。
この世界で自分はすべての役割を終える。
忘れもしない、目覚めとともに彼がそこにいた喜びを。
この子なのだと、あまりに唐突で根拠のない確信だった。
それと同時にためらいが生まれた。
あの孤独な旅を歩ませたくない、しかし、このままにしておいても彼はいなくなってしまう。
大地もすでに悲鳴をあげだした。
「君が僕を連れて飛んでいければいいのに」
それは唐突な言葉だった。
聞き取ることも困難な小さな声。
憧れることさえ諦めてしまいそうなこの檻の中で、隣で不意にこぼされた願い。
それが本当の終わりの始まりだったなんて、あの子が知ることはないのだろう。
夢を見た。
白い蕾がゆっくりと開いていく夢だ。
意識の覚醒とともに、すぐさま身体をくの字に折り曲げるはめになった。
痛い、痛い、痛い。なんだっていうんだ。
どこもかしこも引き裂かれるような痛みが走り、熱と間違えてしまうようなそれに視界が霞む。なのに思考は狂うことも赦さずに、膨大な情報をたたき付け、自分が誰なのかも見失ってしまった。
衝動に駆られるまま、一番強く鳴りだした歌を叫ぶ。
しかし、言葉を紡ぎだそうとした喉は、吠えることしかできない。
やっとすべてが過ぎ去ったとき、悟った。
大きくなった身体は思ったよりも激しく暴れていたらしく、蓋にはいくつもの穴が空いていた。
そこから入り込む光に照らされて横たわっている、やせ細った人間の子供。
いつ咲いたのか。夢で見たのと同じ白い花に囲まれたそれが過去の自分であり現在の彼だった。
それとは対に、黒に強く輝く身体で穴の外へと這い出す。
太古の記憶とおなじに、光のなかの世界は美しかった。
不自然に辺り一面に咲いた白い花が、まるで断罪の焔のようだ。生き物は見えない。
大地が開放を喜んでいる。もう何も受け入れることはないと示す。
命を根本で支えていた器(うつわ)はこれほど脆いものだったのかと、思わず抱きしめるように翼を付けた。
穴の中を覗く。
彼の一番の友達はもう目覚めない。
慰めるかのように咲く、花の柩へと横たわった彼にもうあの歌声は聞かせてあげられないけれど、一声高く吠えて別れを告げた。
人だった自分の姿で眠る彼と、竜だった彼の姿をした自分を、明るいはずの空から降る雫が濡らした。
さぁ、飛び立とう、君の願った通りに全てをこの瞳に映そう
翼の音と静寂が耳に響く。
そうして世界は閉じられた。
いくつの世界を渡っただろうか。
いくどめかに瞳を開くと彼女がいた。
嗚呼、この子なのだと思った。
これでやっと、焦がれた彼の元へと逝ける。