50歳の休日
いまから10年以上前にわたしはその場へ行き、その観光名所に付きものの「ある行為」をしたことがある。それは敢えてここでは書かないでおくけれども、それよりもわたしは知っている人に訊きたいことがあるのだ。あれは、本当はなんなのか。単純な質問である。想像力で答えて欲しいのだが(その歴史的真相ではなく)、何の意図でああなったのか。なぜそうなったのかという問いである。
さあ、答えは出たであろうか。実は、わたしは少し知っている。知っていて敢えて問うてみた。意識を高めてもらいたいために。ヒントを言えば、あの形。丸く大きなコインのようだ。大きさは直径1mもないだろうが、かなり大きな丸い板状で、厚みもある。それが壁に掛けられたように置かれてある。それは、本当は何に使われていたのか。
それは「マンホール」なのだそうだ。ローマ時代の下水道かなにかの。皆、何かに見えるけれど、その「何か」が分からなかったのではと思う。あれはただああいう物ではないと。それで・・・・」
ここまで書いてわたしはぐっと身を引き、腕を組んでしまった。映画についてのエッセイ募集の公募があったので、ちょっと試しに書いて出してみようと思い、大好きな映画『ローマの休日』について書こうとしたのだ。当たり前のことを書いても箸にも棒にも引っ掛からないだろうと、何か捻ってみようと、「真実の口」について書いてみたのだ。けれど、それがマンホールだったということは面白いのだが、その先この話を続ける構想が思い付かないのだった。
オードリー・ヘップバーンはとてもチャーミングで、こんな子を彼女にできたらいいなと思ったことがある。しかしそれは昔昔に捨てていた。どう考えてもこの世には現れないだろうと。あれから30年、二十歳の頃に思い描いた夢も現実に無残にも潰されたのだった。ああ、こんなことを書いても映画の良さはでないし。一人部屋に転がって、我が人生の臭いの染み込んだ毛布に包まり、天井を見上げた。わたしは子供の頃によく見かけた蓑虫を思い出した。枯れ木にぶらぶらとぶら下がり、風の吹くままに身を任せ、ゆらりゆらりと世の中を眺めている。目を閉じて、いま自分が一本の糸で吊られ、同じように揺れているのを想像した。このまま自分はどうなってしまうのか。揺れていればなんとかなるものなのか。いや無になることが大事なことなのか。空っぽな虫。蓑もない虫。蓑無し虫。清少納言が書いていた。「みのむし、あわれなり」と。ああ、嫌だ嫌だ。
わたしは目を開け、がばっと蓑を破くように毛布を脱ぎ捨て、大の字になった。これからだ、これから再生だ。蓑虫の虫だって成虫になって飛び出す蛾なのだ。とにかく外へと財布をポケットに突っ込んでドアを開けた。長い長い我が「ローマの休日」もそろそろ終わりにしなければ。そう思いながらすたすたと歩くけれど、特に行くあてもなく、自然に足はビデオレンタルショップに向かっていた。いつものように名画コーナーを物色していると、頭の中に響く声がある。ローマの休日、ローマの休日、と。そうかやはりそれしかないか。今日観る自分は今までの自分と違うのだ。正々堂々と手に取り、受付カウンターで受け取ると、暗くなりかけた路を晴れやかな気分で歩いていた。
さて、御祝いだと勝手に盛り上がり、酒でも飲むかとコンビニへと歩いた。経済的な理由で禁酒の日々を過ごしていたけれど、今日だけ、今夜は解禁だ。今日飲まずしていつ飲むのだ。そう言い聞かせ、酒類棚へ行き、とりあえずのビールと赤ワインを買った。外国映画はワインだろう。ローマだし。あいにくイタリアワインは無いけれども、ヨーロッパのくくりがあれば良しだ。さあ、ローマだ、オードリーだ!
結局、この日の出来事をそのまま書いて公募の作品としたのだった。あれからしばらく経つが、もちろん何の音沙汰も無い。すっかりもう忘れてすらいる。でもあのとき、偶然にも蓑虫のことを想ったことは不思議と忘れなかった。木枯らしの中で揺れる蓑虫。この姿は今のわたしにとても安らぎを与えてくれる。毛布で包まり、世を眺めよう。いまの生活はそれでいいのだ。これで。そして想像してみるのだ。「真実の口」の中に手を入れて、嘘をついているかどうかを確かめたい。自分が自分に嘘をついているかどうかを。海神に訊いてみたいのだ。それは自分だけでは分からなくなっているから。
そういうわけで、そんな50歳の「休日」が続いている。蓑をそろそろ破かなければいけないと思うのだった。 (了)